北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -10-

<NO,55>(2008,12,10発行))
屯田兵育ての父・・北海道を愛した永山武四郎の生涯
―屯田事務局長・第二代北海道庁長官・陸軍第七師団長・貴族院議員を歴任―
  
■まえがき
  1869年(明治2年)7月、明治政府は開拓使を設置して、北海道近代化の開拓事業を推進するために各分野にわたり諸外国の先進技術・文化の専門家78名を招いています。 
1871年(明治4年)7月、開拓使顧問として米国農務省長官ホーレス・ケプロン(1804-1885)を招き、続いて1873年(明治6年)1月、地質測量のベンジャミン・S・ライマン(1835-1920)、そして同年7月、農業牧畜のエドウィン・ダン(1858-1931)、さらに1976年(明治9年)7月、高等教育のウィリアム・S・クラーク(1826-1886)などを迎えて、その優れた指導力のもとにいろいろな開拓事業を進め、また「札幌農学校」を開校(明治9年8月)したのでした。彼らは総じて勤勉で、非常に熱心に仕事に取り組み、北海道開拓期の立派な指導者でした。
  さて、江戸中期からのロシアの南下政策でロシア船の寄港・上陸が相次いでおり、日露の緊張は、明治政府にとっても脅威でした。これに対し、当時の北海道は、大国ロシアに対する軍備の強化が急務とされていました。この北方警備と開墾に従事させる「屯田制」を北海道に実施するという考えは、明治初年からあったようですが、1870年(明治3年)の開拓使の提案、次いで西郷隆盛が士族による北方警備と開拓を主唱、さらに陸軍大尉永山武四郎の進言を受けて、黒田清隆開拓次官が、1873年(明治6年)11月に太政官に屯田制を建議し、翌1874 年(明治7年)に「屯田兵例則」が決定したのでした。開拓使は、ホーレス・ケプロンの助言により最初の入植地を「琴似」と定めて、すぐに兵屋208戸・中隊本部・練兵場・授産所などの兵村を建設しました。そして、翌年1875年(明治8年)5月、屯田兵・家族965人の第一陣が入植しています。以後、北海道には、各地に37の兵村ができ、合計約4万人が入植しています。<1904年(明治37年)屯田兵制度廃止。明治15年2月開拓使廃止に伴って、屯田兵の管轄は開拓使から陸軍省に移されます。>
永山武四郎(1837-1904)は、1872年(明治5年)9月から開拓使出仕。1875年(明治8年)3月、屯田事務局付となり、以後、札幌・旭川など各地の屯田兵制の創設に力を尽くし、「屯田兵育ての父」といわれています。今回は、屯田事務局長・第二代北海道庁長官・陸軍第七師団長・貴族院議員などを歴任し、北海道を愛した「永山武四郎」の生涯とその業績に光を当ててみたいと思います。

■永山武四郎の生立ちと屯田兵の開始
  永山武四郎は、1837年(天保8年4月24日)5月28日、薩摩藩士永山清左衛門の4男として、鹿児島郡西田村(現鹿児島市)に生まれています。のち同姓喜八郎の養子となり、幼いときから剣術を藩の指南番大山某に学び、槍術を梅田九衛門について学んだといわれます。当時、多くの薩摩・長州の志士が、幕末から維新にかけて勤皇討幕など先鋭的な政治活動を行ったのに対して、武四郎は、1868年(慶応4年)戊辰の役で、藩軍にしたがって明治新政府軍の一人として会津の攻略に出陣したのが彼の新しい時代の始まりとなったのでした。32歳の武四郎は、初陣ながらよく奮戦し軍の先鋒となって若松城下に攻め入り勇名をとどろかしたといわれます。
  明治新政府の重臣の中には、同じ薩摩藩出身者としては、長老格の西郷隆盛(10歳年上)、黒田清隆(3歳年下)、岩村通俊(3歳年下)、伊藤博文(4歳年下)などがいますが、武四郎は誠実、実直型で、根っからの軍人魂を貫き、1871年(明治4年)3月陸軍大尉となり、御親兵(後の近衛師団)の小隊長に任ぜられています。当時、明治政府の陸軍兵制採用について、イギリス式とフランス式の二派の議論があり、イギリス式を主張していた薩摩藩出身者は激論にやぶれて失意に陥ります。武四郎も一時はその職を辞する決意をします。
  この頃、北海道は大国ロシアの南下政策の脅威に脅かされていました。それにたいして北門の防御体制は函建砲台にわずかの守備弊がおかれているにすぎない状況でした。かねてから北方の防備の必要性を主張していた武四郎は、心機一転、北海道の開拓と北方の防備にあたる決心をしたといわれています。武四郎は、1872年(明治5年)9月15日、近衛師団陸軍大尉・開拓使八等出仕として札幌に着任しました。
屯田制を北海道に実施するという考えは、早くから、北方警備と開拓に従事する困窮士族対策として各方面で考えられていました。最初は、1870年(明治3年)開拓使提案、次いで、西郷隆盛の提唱がありました。1873年(明治6年)10月、武四郎を中心とした開拓使中堅幹部らが、黒田清隆に対し屯田兵制度の創設を進言し、また11月には岩倉右大臣たいしても同様の建言をしました。こうした開拓使たちの熱意を受けて、同年12月に黒田清隆の建言となって政府に受け入れられます。
  翌年(明治7年) 6月、開拓次官黒田清隆は陸軍中尉・屯田兵憲兵事務総理兼任となり、開拓使と陸軍省の両方の予算と権限を持ち、北海道に君臨することとなりました。また、武四郎はこの新設された屯田兵事務局に配属されて準備計画にあたります。同年10月30日「屯田兵例則」が決定、正式に発足しました。その後、武四郎は、約30年間、屯田兵の指導・北海道の開発と北辺の防備に専念することとなります。
屯田兵村の設置場所の選定については、安政年間の松浦武四郎の探検調査や西郷隆盛の命を受けて調査した桐野利明の琴似を適地とする報告もありましたが、開拓使は、小樽、石狩、千歳方面にその適地をさがしていました。また松本十郎大判官の月寒を適地とする意見もありましたが、最終的には、開拓使顧問ホーレス・ケプロンの進言により、最初の入植地を札幌郡琴似村と定めて、早速208戸の兵村の建設に着手します。この琴似屯田兵屋の設計についても、ケプロンの意見により当初の2軒長屋が1戸建てとなったといわれます。しかし、ケプロン主張のストーブ・壁天井の白土壁などは採用されず、建坪も17,5坪となりました。住宅地は一戸あたり150坪でした。この兵屋建設は、開拓使東京出張所出仕の、後にサッポロビール生みの親となる村橋久成(1842-92)が開拓使官吏として1874年(明治7年)4月11日来札し、具体的な区画割・地積測量の任にあたっています。
  琴似屯田兵村(屯田兵第1大隊第1中隊)は、週番所(中隊本部)、練兵場、授産所、墓地などの中心施設を南側に集め、その北側に計208戸の兵屋を密集させて、周囲に1戸あたり5,000坪の農地を配置したものでした。さらに、大砲(ガットリング砲)4門、小銃(エンピール銃)1,600丁をアメリカから買い入れています。
1875年(明治8年)1月、戊辰戦争で新政府軍(官軍)との戦いに敗れた宮城・青森・坂田(山形)3県と旧館藩(元の松前藩)の士族のなかから志願者を募り、5月に屯田兵・家族965人の第一陣が入地しています。続いて翌年には山鼻兵村(240戸、1,114人)と発寒兵村(320戸)に入地。発寒兵村は琴似兵村とともに第1中隊。山鼻兵村が第2中隊で、合わせて第1大隊編成とされました。続いて、明治11・14・1719年江別兵村(220戸)、明治18・19年野幌兵村(225戸)、明治20・21年新琴似兵村220戸、明治22年篠路兵村(220戸)などに旧士族らが入地して、道央地区の開墾が進められていきます。

■西南戦争と屯田兵の出征
  1679年(明治10年)征韓論に敗れた西郷隆盛が故郷の鹿児島に帰り、反政府軍を率いて北上します。この「西南戦争」最大の戦場は政府軍が守る熊本城の攻防となり、田原坂の激戦で政府軍が西郷軍を撃破したことで帰趨が決します。西郷軍が鹿児島を出発したのが2月15日。田原坂の戦いが3月20日、以後西郷軍は鹿児島まで後退を続け、9月24日西郷隆盛が城山で自刃して「西南戦争」は終ります。
この「西南戦争」に屯田兵も政府軍の一翼として出征しました。これを指揮したのが、准陸軍大佐堀基と准陸軍少佐永山武四郎(40歳)でした。西郷隆盛は薩摩藩の大先輩であり、また屯田兵の構想を最初に企画・推進した最も尊敬すべき人物であり、この出征により武四郎は、最大の苦境にたちます。しかし、大義のために、堀大佐とともに、琴似・山鼻両兵村の屯田兵で第一大隊を編成して、4月9日小樽港から熊本県下に出動しました。別働隊第二旅団に編成され、人吉の戦闘に参加して西郷軍を撃ち破り、“百姓部隊”と蔑視されていた屯田兵の勇名をとどろかしたといわれます。
第一大隊は戦局の決した8月30日東京に戻り、皇居で天皇陛下から親しくご慰労の言葉を賜っています。戦死者8名は、東京招魂社(靖国神社)に合祀されているといわれます。その後、第一大隊は、「ガットリング砲」5門・実弾10万発などを受け取り、9月30日札幌に凱旋しました。
  <翌11年7月、札幌偕楽園に「屯田兵招魂之碑」建立、西南戦争出征戦没者8人・病没者28人の英霊を祀りました。その後、明治42年2月中島公園内に移設、さらに昭和9年6月、札幌護国神社に移設されています。> 
  永山武四郎は、この年12月、陸軍中佐に任じられ、さらに翌1878年(明治11年)12月、屯田兵事務局長となって、その軍務を双肩に担うこととなります。この頃、札幌(北2東6、)に私邸(現永山記念公園内「永山武四郎邸」)を建築しています。<明治13年ころの完成と推測されており、和洋折衷の貴重な歴史的建造物です。北海道有形文化財に指定されています。>

■永山兵村の発展
  1879年(明治12年)5月から約1ヶ月間、武四郎はロシアに出張しています。シベリア、樺太などのコサック騎兵隊の兵屋の構造や防寒の方策などを調査して帰り、その後の屯田兵屋の建築に利用したようです。
  岩村通俊(1840-1915)は、開拓使判官時代、時の開拓次官黒田清隆と意見が会わず、1873年(明治6年)開拓使を去りますが、1882年(明治15年)会計検査院長として来道し、三県(函館・札幌・根室)巡視後に、北海道開発推進のためには、もっと本州からの移住を促進すべきであることと、上川の地に、京都・東京にならぶ「北京」設置の構想を政府に建言しています。その後1885年(明18)に再び来道、屯田兵本部長永山武四郎らと実
地に上川の国見をして、再度、上川地区への「北京」設置の構想を政府に建言します。
   北海道の三県分割には、かねてきびしい批判もあり、政府は、1886年(明治19年)、全道統一的な行政機関として、「北海道庁」を設置することとなり、岩村通俊が初代長官に就任します。岩村は、新たな開発政策の一つとして上川開発事業を進めます。まず、樺戸集治監の労働力により、市来知(現 三笠市)から忠別太(現旭川市)までの開削がなされ、さらに樺戸・空知の両集治監が分担して、改 修工事を行い「上川道路」が、1890年(明治23年) に完成します。そして、永山村・神居村・旭川村が成立しています。 


旭川市常盤公園の永山武四郎の像( 昭和42年・北村西望作)
<「永山村」の名は、永山武四郎の功績を認められた明治天皇のご意思による命名といわれます。>



  1888年(明治21年)、上川屯田の設置が決まり、明24永山地区2兵村・明25東旭川地区2兵村・明26当麻地区2兵村に、本州各地から一兵村200戸・合 計1,200戸が移住。この上川屯田は、従来の困窮武士を対象とする「士族屯田」から一般農民も応募できる「平民屯田」に切り替えた最初のものといわれます。これらの給与地は肥沃な土地と入地者の努力もあって次第に発展しますが、なかでも、永山地区は岩村通俊・永山武四郎による用水路・水田計画などの基盤整備もあって急激な発展をみました。 
  永山武四郎は、第2代北海道庁長官(明21,6~明24,6)となり、岩村の意図を受け継いで、上川への北の帝都「北京」設定を働きかけますが退けられ、変って政府は「離宮」の上川設置を決定しています。道庁は早速、現地調査をして、離宮予定地をナエオサニ(現神楽岡)とし、この地一帯を御料地としたのですが、結局、札幌・小樽地区の反発と日清戦争の始まりによって頓挫し、離宮の建設は実現しませんでした。上川神社境内には、武四郎の歌碑と「上川離宮予定地」の記念碑が建立されています。
  この間、永山武四郎は、本道の開拓・産業の振興に力を尽くし、次々と屯田兵村が誕生することになります。明治20年代の永山武四郎は、屯田兵本部長・北海道庁長官・そして第7師団長となり常に最高責任者として全力投球した時期でした。

■北海道を愛した武四郎
  武四郎は、1885年(明治28年)、日清戦争に出征するため屯田兵を率いて出発しましたが、東京で終戦をむかえています。その翌年、1896年(明29年)第7師団創設に伴い、師団長になって、1900年(明治33年)まで努めました。軍を退役した後、1903年(明治36年)11月、貴族院議員に勅撰されますが、翌明37年3月帝国議会出席のため上京中病にたおれ、食道ガンのため5月27日夜、67歳の生涯を閉じました。北海道の土になるという本人の遺志により、棺に入れられた遺体は上野駅から列車で札幌へ移され、自邸に安置されました。葬儀は6月2日、神式で盛大に行われ、儀杖兵一個大隊が粛然と大礼服に覆われた棺を守ったといわれます。永山邸から豊平橋までの沿道は会葬者の人垣で埋め尽くされたということです。武四郎の生前の意志により、旧豊平墓地に埋葬されましたが、1982年(昭和57年)、里塚霊園に改葬されています。
  永山武四郎は、旭川の永山神社に祀られ、また、旭川神社・北海道神宮末社の開拓神社にも合祀されています。

 <主な参考文献及び参考資料>
・「開拓使時代」(さっぽろ文庫50) ・「屯田兵」(さっぽろ文庫33) ・「琴似屯田百年史」(琴似屯田百年記念事業期成会) ・「琴似屯田歴史館資料室」展示配布資料  ・「ほっかいどう百年物語」STVラジオ編 中西出版  ・「よみがえった『永山邸』-屯田兵の父永山武四郎の実像ー 」 高安正明著 共同文化社・「開拓につくした人びと第3巻」北海道総務部文書課編集 理論社刊 ・「目で見る旭川の歩み」(開基100年記念誌・旭川市) ・「北海道の歴史」榎本守恵著 北海道新聞社 ・インターネット資料、他



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