北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -12-

HOMAS <NO.57 2009,7,31発行>
開拓使顧問・北海道開拓の父 ホーレス・ケプロン
-滞日3年10ヵ月・3度にわたる長期北海道視察調査・膨大な「ケプロン報文」-

■まえがき
  1869年(明治2年)7月、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、1870年(明治3年)5月、開拓次官となった黒田清隆(以下、「黒田」)は、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求めて、1871年(明治4年)4月、マサチューセッツ州出身の米国農務省長官(農務局長)ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)を開拓使顧問として招聘しました。同年8月、来日したケプロンの指導で、早速東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作、家畜の飼育や農業技術者の養成などが行われます。ケプロンは、滞日3年10ヵ月、その間3回にわたり、道内各地の視察・調査に来道し、詳細な「ケプロン報文」を作成しています。
  「報文」は、北海道の基本的な開発計画を提案し、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラークを迎えて札幌農学校が開校(明9,8,14)されます。ケプロンの提言は、すべて、北海道開拓の基礎事業、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その後の北海道の開拓・開発の重要な指針となるものであったといわれています。
  2010年、北海道・マサチューセッツ州姉妹提携20周年を迎えるにあたり、北海道開拓の父ともいわれるホーレス・ケプロンの偉大な業績とその生涯を今一度検証してみたいと思います。

■ホーレス・ケプロンの生立ち
  父ドクター・セス・ケプロンは、1656年ころ、英国から移住。独立戦争(1775-1783)が起きると1781年春陸軍に入隊。ハドソン川で実践に参加、ニュ―ヨーク司令部に配属。1790年除隊、マサチューセッツ州アトロボロ(ボストンの南方100キロ余)に戻り、再び医学の勉強をします。1790年9月、アトロボロの医師ベザリール・マンの娘ユニース・マンと結婚。・・・1804年8月31日、父セス・ケプロンの4男としてホーレスが生まれています。そして、父の移住(医師開業)により2歳―19歳までニューヨーク州ホワイツボロで過ごしています。
  その間、父は綿織物工場・毛織物工場の経営にも成功しています。(父は、1835年死去、74歳)。3人の兄たちは、父の事業が成功していた時期で、それぞれ大学へ進学しましたが、「まるで台風のようにやってきた不況」のために、ホーレス・ケプロン(以下「ケプロン」)は、大学進学断念を余儀なくされ、学歴は、旧制中学程度で、すぐに父の綿布製造業に従事して各分野の十分な知識を得て、すぐに事業に精通したといわれます。ケプロンは、1829年メリーランド州バルチモアの綿布工場の監督となり、後にベルの工場の責任者としても成功し、綿布製造業界の著名人となっていきます。
  1833~34年、メリーランド州バルチモアー首都ワシントンを結ぶ鉄道建設現場で、労務者数千人の暴動が起こった時、ケプロンは知事の依頼によって,自警団の指揮とってこれを鎮めたのです。その功績により知事は、ケプロン(30歳)を取り立て、メリーランド州の国民兵32連隊少佐に任命されます。さらにまた数千人の鉄道の暴動を鎮圧したことにより、1834年3月、中佐に任命しています。
  ケプロンは、1834年、地元資産家のニコラス・スノードンの娘と結婚し、妻の所有するローレルの広大な地所で綿織物工場を経営し、1849年には、2500人を雇用しています。さらに、婦人が相続したスノードン家の土地を管理、地力の落ちた広大な荒廃地に資本を投入して、肥料を施して地力の回復に努め州第一の大規模農場に仕立て上げて科学的農業経営による作物栽培にも成功して、「農業の権威者」といわれます。1848年には、合衆国農業会副会長・メリーランド州農業協会会長となり、1850年のロンドン国際博覧会には、メリーランド州代表して出席しています。
  しかし、1年前の妻ルイーザの死とともに、1840年代末からの恐慌のあおりをうけて、事業も思わしくなく、失意のどん底に落ち込んでいましたが、知人の働きかけで、1852年春、政府から北テキサス・インディアン居住地を治める特別任務の職を得て、各地で幾多の問題を適切に処理しています。
  1854年、ケプロンは2年の任期を終えて、再婚した妻マーガレットや子どもたちとともにイリノイ州に移住し、再び酪農経営に取り組みます。やがて家畜の飼育者としても成功し、家畜の品評会でも度重なる入賞を果たし、全国の農業協会の役員として活動します。
1861年南北戦争が起こり、ケプロンは3人の息子と北軍に入隊。1963年(58歳)に大佐に昇進、各騎兵旅団の指揮を命ぜられます。1866年には准将(将軍)に昇任します。各地に参戦して64回の栄光に輝く戦闘に参加したといわれます。しかしこの間、長男は戦死、次・三男は負傷しました。終戦後、イリノイ州に戻りますが、牧場は荒廃して再び経営することは困難な状態になりました。このような苦境にあったとき、たまたま初代農務省長官がなくなり、その後任者として、1867年(慶応3年)、ケプロンが、合衆国農務省第2代長官(農務局長)の要職に「任命されます。彼の健全な判断力、農場経営の豊かな知識、家畜・植物・土地に対する厳正な統計的認識、そのすぐれた部下統率能力などから、その職務はまったく適役といわれました。3年半在任して、1867~1870農務省年報の他、あらゆる農作物の実験栽培、土地管理、演芸・養蚕・酪農にまで及ぶすぐれた仕事を残して、マスコミからも多くの賛辞を受けています。

■明治政府の北海道開拓
  明治政府は、ロシアの南下政策に対して、北方の防備のために北海道の開拓を急務としていました。それで、黒田次官の北地問題に関する建議書を1870年(明治3年)11月には、全面的に受け入れます。北海道開拓に必要とする、開拓に長じた外国人技術者の雇用と農業機械等購入を黒田清隆(以下「黒田」)に全て委任します。その費用についても開拓使の定額以外より支出することを保障しています。 
1871年(明治4年)1月、黒田は、留学生を伴って米国に向けて出発します。黒田は、当初から北海道開拓に必要なお雇い外国人を米国に求める考えであったようです。また、直接の人選の衝にあった森有礼は、気候風土の相似したニューイングランドの州を念頭においていたようです。こうして、同年(明治4年)4月、黒田は、駐米公使森有礼とともにグラント大統領と会見して、日本政府の申し出を提示します。これを受けて米国は日本の要請を承認して、開拓使顧問としてホーレス・ケプロンを推薦しています。

■開拓使顧問ホーレス・ケプロンの招聘
  (ケプロンの提示した条件をうけて日本政府が承認した契約の概要) ~北海道こと「えぞ」は、日本の重要な領土であるが、内陸はまったく未開である。この「えぞ」の開発のために、その領土と島の農業その他の資源開発。地質・植物・鉱物の予備調査、道路・運河・町・駅の開発などの詳細な報告書を作成して提出すること。この任務のために、土木・建築・農業及び鉱業部門の主任助手を選任する。ホーレス・ケプロンの年俸は1万ドル(農務局長職は4,000ドル)。助手は3000~4000ドルとする。一行の日米往復と滞日中の生活の経費はすべて日本政府負担。さらに、家具つき住居提供、家賃・税免除。家事使用人・世話人・警備員を置く。~ などの条件を提案しています。ケプロンを1871年(明治4年)5月15日に任命するも、後任の関係で大統領の承認が得られず、ケプロンが6月27日に、辞表を再提出してグラント大統領の承認を得ています。
  ケプロン他3名の一行は、1871年(明治4年)8月1日サンフランシスコを出発、8月25日午後6時半横浜港に到着しました。東京での宿舎は芝増上寺の本坊が当てられました。早速、政府高官の饗宴をうけ、天皇にも謁見しています。ケプロンは来日に際し、工学・地質・鉱学関係担当の技師として合衆国農務省に勤務していたアンチセル、測量・土木関係担当の技師としてバルチモア・オハイオ鉄道に勤務していたワーフィールド、それに書記兼医師としてジョウジタウン医科大学解剖学助手・合衆国農務省図書館司書をしていたエルドリッジという優秀なスタッフを同行したのでした。
  ケプロン在任中のお雇い外国人の大半は、ケプロンの推薦・承認のもとに採用されたこともあり、多くのアメリカ人技術者が中心となったようです。地質・測量・鉱山のライマンや助手マンロー(1872・明5来日~)、農業・牧畜のボーマー(1871・明4来日~)やダン(1873・明6来日~)などがよく知られています。
  ケプロン帰国後も、札幌農学校関係では、初代教頭・農学・化学・数学のクラーク、土木工学・数学・第2代教頭のホイーラー、化学・農学・数学・第3代教頭のペンハロー(3名、1876・明9来日~)、農学・官園監督・第4代教頭のブルックス(1877・明10来日~)、生理学・解剖学・病院医術顧問のカッター、数学・土木のピーボディー(2名、1878・明11来日~)などを迎えています。また、茅沼・幌内炭鉱のゴージョー、ダウス(2名、1879・明12来日~)、鉄道敷設・土木顧問のクロフォード(1878・明11来日~)、水産加工・魚肉缶詰製造のトリート(1877・明10来日~)などが招かれており、ケプロンを筆頭に48名の「お雇い外国人」がアメリカ人でした。

■ホーレス・ケプロンの雄大な開拓計画とその業績
  黒田は、明治政府の「開拓使10年計画」(明5~明14)の計画立案・事業推進のために、ケプロンの「農科大学を興すべし」の献言を受けて、まず、1872年(明治5年)3月、東京芝増上寺山内に「仮学校」を開校します。お雇い教師はほとんどアメリカ人を採用しています。(この「仮学校」が、1875年(明治8年)8月、札幌に移転して「札幌学校」(校長調所広丈)となり、翌1876年(明治9年)7月31日クラーク、ホイーラー、ペンハローの一行を札幌に迎えて、8月14日の「札幌農学校」(校長調所広丈・教頭クラーク博士)の開校へとつながります。)
  ケプロンは、1871年(明治4年)9月、早速、東京に農事試験場「官園」3ヶ所設置して、アメリカから輸入した動植物を管理しました。同時に北海道の七重・札幌にも官園が設置されました。札幌では、札幌本庁敷地北側に3600坪(後に40万坪に拡大)の御手作場設け、さまざまな農作物が栽培サレされ「葡萄園」「ホップ園」「果樹園」なども設けられました。その後、1876年(明治9年)には、この官園のうち、30万坪が札幌農学校農場に移管されました。
  開拓使は、ケプロンの献策により、札幌市内大通ー北1条・東1丁目ー東4丁目を工業ゾーンとして、さまざまな「官営工場」を建設しました。現在のサッポロビールの原点でもある「開拓使麦酒醸造所」もこの地に誕生しています。
  ケプロンは1871年(明治4年)8月来日、以後3年10ヶ月日本に滞在しますが、まず8月~10月、アンチセルとワーフィールドを開拓予備調査のため北海道に派遣しています。一行は、函館から恵山岬をまわって、噴火湾を横切り室蘭に渡り、海岸沿いに勇払川、千歳方面を通って札幌着。札幌附近が全道の首府たるべき地点であることを確認しています。約2ヶ月間馬に乗って巡視し、豊平川架橋(当時は明治4年4月の仮橋)の急務、製造工場や水車の設置場所の選定、札幌室蘭間の道路計画なども含めた、北海道の気候・風土を総合的に考察した報告に基づいて、11月、「第1次報文」を開拓使に提出しています。
  ケプロン自身の第1回目の道内巡検は、1872年(明治5年)5月、東京湾を出帆して、函館・室蘭を経て札幌に到着。札幌の「開拓使本庁舎」(~6年10月落成)の建築状況や製材場その他の諸工場の所在地(現在の大通り東1・2丁目附近全体の広い地域)を検分、さらに石狩・小樽を視察し、室蘭・函館を経て10月に帰京しています。
  第2回目の道内巡検は、1873年(明治6年)6月出発、黒田の指示を受けて、東京の開拓使官園の試験成果を移植するために設置する、七重・札幌官園・試験場の調査、その輸送方法に関する現地調査、牧畜・耕種の適地調査、鉱山開採方法に関する調査などでした。函館・七重官園・室蘭を経由して札幌着。札幌の農作・工場を検分後、ライマンを伴って豊平川・石狩川の調査、石狩・当別視察、小樽・余市を経て岩内の茅沼炭鉱を検分、長万部・函館を経て9月に帰京しています。この第2回巡検後11月に、農業・牧畜、石狩各地炭田開発・輸送計画などを含む「第2次報文」を提出しています。 
  第3回目の道内巡検は、1874年(明治7年)5月出発。黒田の指示事項は、七重官園における果樹の点検と育成方法、室蘭に設置すべき木挽器械所の調査、新室蘭・札幌・小樽に予定している殖民(屯田)地の調査、札幌の種畜場・果樹・堤防の検分調査、ホロムイ・岩内石炭山の石炭採掘・運搬方法、その他鉱物の探査、浦河管内の牧畜・開墾の適地調査、漁業改良の方法調査など多岐にわたっています。函館・室蘭を経て6月札幌着。札幌近郊・小樽を調査。8月札幌発、勇払・浦河を経て、函館へ、そして8月末帰京しています。そして、1875年(明治8年)3月、ケプロンの開拓事業に関する具体的な意見や多彩な見解を総括した「開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文」を提出しています。 
さらに帰国に際して、契約を延期して「報文要略」をまとめて、開拓使に提出してから、1875年(明治8年)5月23日、帰国しています。

■帰国後のホーレス・ケプロン
  ケプロンは、帰国後はワシントンに在住して静穏な余生を送ったといわれます。1876年(明治9年)には、ワシントン哲学会で「日本」と題する講演をし、また1877年(明治10年)西南戦争に際しては、黒田の要請(黒田は65,000ドルをケプロンに送金)に応じて鉄砲・弾薬の調達をしたり、開拓使からのいろいろな依頼に対応してなお日本に目を向けていたといわれます。晩年のケプロンにとって、日本とのきずなは貴重であったようです。ケプロンは時折、自宅に議員や各省の高官を招いて、日本から持ち帰った美術工芸品を披露するのを楽しみにしていたそうです。ケプロンの人柄は、いつも誠実で奥ゆかしい態度で人に接し、虚飾を廃した質素な生活を好んだといわれます。
  1884年(明治17年)1月、日本の天皇から勲二等旭日章が授与されました。ケプロンは、勲章と日本でのケプロンの功績を書き連ねた天皇署名入りの賞状に「深い感動」をおぼえたといわれます。
  そして、1年後の1885年(明治18年)2月21日、ケプロンはワシントン記念塔完成を祝う式典に出席します。その日はよく晴れていたが、風の冷たい日であったそうです。帰宅後、気分の不調を訴えたケプロンは、その翌日、80歳の生涯を閉じたのでした。
  ケプロンは、開拓使顧問在任中は、黒田の信頼もきわめて厚く、職務にたいしては誠実そのものであったといわれます。しかし、ケプロンの指導による北海道開拓事業の成果にたいしては、開拓使官員や内外新聞の批判、多くの優秀な部下たちとのトラブルなどもあって、きびしい評価もあったようです。ケプロンの北海道の総合的な開発の計画・構想は開拓使に対してのみ向けられ、顧問としての職分に徹していたようです。


<;主な参考文献及び参考資料>
□「ケプロン日誌ー蝦夷と江戸」ホーレス・ケプロン著 西島照男訳 北海道新聞社   
□ホーレス・ケプロン将軍―北海道開拓の父の人間像」メリット・スター著 西島照男訳 北海道出版企画センター 
□ 「ホーレス・ケプロン自伝」 西島照男訳 北海道出版企画センター  
□「北海道を開拓したアメリカ人」藤田文子著 新潮選書   
□ 「ホーレス・ケプロンを語るー北海道開拓の恩人―」 逢坂信忢著 丸善株式会社  
□ 「北門開拓とアメリカ文化―ケプロンとクラークの功績―」山本紘照著 文化書院刊 
 □ お雇い外国人―開拓」原田一典著 鹿島出版会  
□ インターネット資料 他


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