HOMAS<NO、43>(2004,12,10発行)
開拓使顧問ホーレス・ケプロンと開拓次官黒田清隆
-ホーレス・ケプロン生誕200年記念に寄せて―
北海道近代の開拓の歴史はきわめて急テンポの展開であり、しかも奇しくも、北海道とマサチューセッツ州の国際交流の出発点ともなるものでありました。
明治2年(1869) 7月、明治政府の開拓使設置(初代開拓長官<明2,7,13-2,8,25>鍋島直正)にはじまります。同年8月蝦夷地を北海道と改称、第二代長官<明2,8,25-4,10,15>東久世通禧が9月函館開拓使出張所設置により来道。同年10月(旧暦)銭函仮役所<明2,10-3,4>を設置、島義勇判官<明2,7,22-明3,3,2>が初代主任官となり札幌の本府建設に着手することとなります。島義勇は、開拓3神を奉じて札幌着任の後、旧暦明治2年11月12日・13日(12月13日・14日)に「コタンベツの丘」(円山、三角山?)に登り本府建設100年の大計を構想したといわれます。その後、島義勇は東久世長官との意見対立により明治3年3月2日付で東京召還。それを受けて岩村通俊判官が第二代主任官となり、京都を模した札幌建設を進めました。<明4,10―明7,10>は長官不在により、岩村通俊が長官執務。(岩村通俊は、後に明治19年(1986)初代北海道庁長官となります。)
明治3年(1870) 5月、黒田清隆が開拓次官となります。彼は、明治7年(1874) 8月には、第三代開拓使長官となり開拓使廃止直前<最後の開拓長官西郷従道は、明15,1,11-15,2,8の短期在任>の明治15年(1882)
1月まで、本道行政の直接の責任者として活躍し、北海道の開拓の基礎を築いた最大の功労者といえます。アメリカ農務省長官のホーレス・ケプロンをはじめ、鉱山技師ベンジャミン・S・ライマン、農学校教頭ウィリアム・S・クラーク、畜産の父エドウィン・ダンなど78人の外国人(そのうちアメリカ人48人)を招いて北海道開拓に欧米の先進技術を導入したのも彼の高い識見によるものでした。
明治4年(1871) 1月、開拓次官黒田清隆は、米国に渡り、グラント大統領に開拓使顧問の招聘を依頼して、同年3月アメリカ農務省長官ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)の顧問契約を成立させました。同年7月にケプロンは秘書エルドリッジ、科学技術師アンチセル、土木技師ワ―フィールドを伴って来日しました。以後、約4年間、アンチセル、ワーフィールドの開拓予備調査、その後のケプロン自身の3回にわたる道内各地の視察・調査を通してまとめられた「ケプロン報告書」(①明治4年(1871) 11月、②明治6年(1873)
11月、③明治8年(1875) 3月)、さらに離日に際して、開拓使に提出した「報文要略」は、その後の北海道開拓の重要な指針となるものであったといわれます。いわば、北海道近代化の指導者が米国マサチューセッツ州出身のホーレス・ケプロンであったことは不思議な歴史の原点といえます。
今年2004年は、ホーレス・ケプロンの生誕200年にあたり、去る11月27日(土)道庁赤レンガ庁舎において「ホーレス・ケプロン生誕200年記念の集い」(実行委員長、有江幹男元北海道大学学長・北海道日米協会会長・北海道・マサチューセッツ協会名誉会長)が開催されました。
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