北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -2-

HOMAS <NO、44>(2005,3,17発行))
札幌村の開祖 大友亀太郎と日本畜産の指導者エドウィン・ダン
 
-ダンの指導を受けた町村金弥、そして「町村農場」を創設した町村敬貴-

 
  江戸幕府は、蝦夷地警備のために安政元年(1854)箱館奉行所を設置しました。そして、内陸部開拓のために、二宮尊徳(1787~1856、江戸後期の農政家)一門に協力を要請しますが、安政5年(1858)になって、報徳思想を体得した門下生の「大友亀太郎」(1834~1897、当時25歳)が、幕府の命令により蝦夷地に渡ることとなりました。
  大友亀太郎は、箱館奉行から開墾場取扱いの辞令を受けて、苦労の末原野を切り開き、道路を作り、用水路を掘って、木古内・大野村・次いで七飯に御手作場(おてさくば・開拓農場)を開設しました。(明治元年(1868)7月、箱館府の99年間祖借地契約による、ガルトネル七重村開墾農場は、開拓使が交渉を重ね、明治3年(1870)12月、明治政府が莫大な賠償金を支払って取り戻しますが、彼の西洋式農業紹介の功績は大きいといわれています。)
  この開墾農場開設の業績が高く評価されて、大友亀太郎は、慶応2年(1866、当時32歳)、蝦夷地開墾掛を命ぜられ、石狩開墾に関する計画書を提出して、4月23日高木長蔵ら数名とともに石狩に入りました。早山清太郎を案内役として御手作場(おてさくば・開拓農場)をサホロベツ(アイヌ語で大きな乾いた広い土地という意味)と決定して、伏古川のほとりで開拓に着手したのでした。(これが「札幌村」の原点となりました)。
  当時、大友亀太郎より先に、発寒には山岡精次郎、篠路には荒井金助、早山清太郎、豊平川両岸には志村鉄一、吉田茂八らが入植していたといわれます。大友亀太郎は、田畑の開墾に先立って、資本を導入して、石狩などから多くの人夫を集めて、豊平川支流から水を引いて、北に水路を掘り進め、現在の南3条から北6条までは直線に(現在の創成川)、そこから東北に曲って北13条東16丁目のところで伏古川に合流するという用水路の大工事を、慶応2年(1866)5月から始めて、同年9月9日に完成・通水させたといわれます。
  <これが「大友堀」といわれるもので、堀の大きさは長さ約4km、深さ約1.5m、上幅約1.8m、下幅1.2mという大規模工事で、毎日40~50人の人夫が働く「一万両の大工事」といわれるものでした。完成した「大友堀」は、用水路、運送路として、多目的に利用されましたが、大正14年(1925)ごろ北6条から伏古川の間は埋めたてられました。後に、札幌から茨戸までの「寺尾秀次郎堀」と結ばれて、一直線の川筋として今日に至っています。>
 さらに道路や橋なども作り、翌慶応3年(1867)4月、箱館近郊から20戸70余人の入植者を迎えて、田畑を開墾し、その年の秋には若干の米も収穫したといわれます。こうして、大友亀太郎は、明治以後の札幌開拓の先駆的な役割を果たしたのでした。(後に、札幌官園のエドウィン・ダンなどの指導で各種作物が栽培されます。)
  大友亀太郎は、明治元年(1868)7月箱館裁判所付属となります。12月石狩当別の土地調査・移民受入れに着手。明治2年(1869)8月、苗穂村を開墾しますが、この年の12月に、元村・苗穂の開墾地を開拓使に引き渡して、翌明治3年(1870)1月、新しく拝命した開拓使掌を辞して苦難の開拓12年の北海道を去りました。その後の大友亀太郎は、茨城県・島根県・山梨県の要職を経て、明治7年(1874)故郷神奈川県に帰り、戸長などを務めて、明治14年(1881)県会議員に当選、以後4期連続当選。明治30年(1897)12月14日没。(64歳の生涯でした。)
  さて明治2年(1869)7月、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、明治3年(1870)5月、開拓次官となった黒田清隆は、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求め、マサチューセッツ州出身の、米国農務長官ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)を開拓使顧問として招聘しました。<この経緯は「HOMAS」№43に詳述>  明治4年(1871)7月来日したケプロンの指導で、早速、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作・家畜の飼育や農業技術者の養成が行なわれたといわれます。また、道内各地の視察・調査にも来ています。
 明治6年(1873年)7月には、オハイオ州で牧場経営をしていたエドウィン・ダン(1848~1931)は、A・B・ケプロン(ホーレス・ケプロンの息子)の依頼を受けて、米国の進んだ畜産技術指導のために、牛20頭・羊100頭とともに大陸横断の苦難の末来日しました。早速、東京麻布の第3官園で約30人の生徒に実技指導を行うことになりました。そして、北海道開拓に役立つ技術者養成のために実技を主体にした畑作や畜産の技術を幅広く指導したといわれます。明治8年(1875)5月、エドウィン・ダンは、北海道七重(現在の七飯)官園に、5ヶ月の長期出張で来て、農業技術や馬の改良に欠かせない去勢技術の普及に努めました。この期間中、札幌官園、新冠牧場も視察しました。また七重では「妻となるべき女性」ツルとの出会いがありました。後に、国際結婚の難しい手続きを経て、正式に結婚。日本永住の決意を固めたのでした。
  明治9年(1876)6月、エドウィン・ダンは、園芸担当のボーマーと共に札幌官園に転勤し、直ちに真駒内牧牛場の建設に着手、搾乳場・乳製品加工場・用水路など、牧場の施設が整備されていきました。この年7月31日、マサチューセッツ州立農科大学学長ウィルアム・S・クラークが、ウィリアム・ホイーラー、ディビッド・ペンハローとともに札幌着任。8月14日、札幌農業校開校となります。これに伴い札幌官園の大半が農学校の農場となったこともあり、エドウィン・ダンも、彼等と協力して、明治10年(1877)我が国最初の模範家畜房(モデルバーン)を建築しました。これは、今日も北大構内に、重要文化財として保存されています。
  明治11年(1878)、エドウィン・ダンの提言により新冠牧馬場が整備され、馬産王国北海道の基礎ができたのでした。馬の改良と増殖が進められ、開拓使が米国農法を模範として、馬を使用する農機具の導入を図ったこともあり、馬による大型機械が普及して、北海道の大規模農業の発展に大きく貢献しました。また、ビール製造用の大麦・小麦・亜麻の栽培等、暗渠排水による土地改良なども、エドウィン・ダンの指導によるところ大であったといわれます。(今日も、多くの農機具は、プラウ・ハロー・ホークなど英語名で呼ばれています。)
  明治15年(1882)1月、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省の所管となりますが、この年、札幌農学校2期生の「町村金弥」(1859-1944)が真駒内牧牛場に勤務して、短期間ではありましたが、エドウィン・ダンの直接指導を受けたのでした。エドウィン・ダンは、この年12月、6年半にわたる北海道滞在に多くの業績を残して、東京に移りました。さて、その後のエドウィン・ダンは、明治16年(1883)、長年にわたる北海道農業・畜産指導の功績により勲五等旭日双光章を受章しています。 米国オハイオ州に一時帰国しますが、明治17年(1884)、駐日米国公使館の二等書記官として再来日、明治30年(1897)まで、外交官として勤務。後明治33年(1900)石油採掘事業を起こし、大正元年(1912)三菱会社勤務。昭和6年(1931)5月15日、東京代々木の自宅で永眠しました。(享年82歳)
 明治15年(1882)12月エドウィン・ダンが去った後、町村金弥が真駒内牧牛場運営の任にあたりました。その薫陶を受けた長男「町村敬貴」(ひろたか)(1882-1969)が、札幌農学校卒業後、米国に渡りウイスコンシン州の牧場で酪農実習、その間農業大学卒業、10年間に及ぶ酪農技術実習を体得して帰国します。そして、大正16年(1917)、石狩市樽川に入植し町村農場を創設しました。
  さらに、昭和2年(1927)現在地の江別対雁(ついしかり)に移転して、総合的・科学的土地改良の実践による酪農経営にあたり、酪農王国北海道の基盤を確立したといわれます。町村敬貴氏は、昭和24年(1969)、没、享年86歳でした。( なお、元北海道知事町村金五氏は実弟、現外務大臣の町村信孝氏は甥にあたります。)


 札幌村の開祖  大友 亀太郎(1834~1897)を記念するもの
① 「大友亀太郎像」(札幌市中央区北2条西1丁目)
 昭和61年(1986)5月、農民彫刻家松田与一氏制作による「大友亀太郎像」が、昔、「大友掘」と呼ばれた創世川沿に建てられています。詳しい歴史説明の石版もあります。
② 「札幌村郷土記念館」(札幌市東区北13条東16丁目2-6)
  昭和52年(1979)4月、地域の人々によって、大友亀太郎の札幌開拓の先駆的事業に関する資料、わが国の「玉ねぎ」栽培の先進地としての歴史的資料などを保存する資料館として開設されました。
  昭和62年(1987)2月札幌市有形文化財指定。記念館の敷地は、大友亀太郎役宅跡として史跡に指定されています。入館無料・10時~16時。(月曜日と祝日の翌日、年末年始は休館です)
③ 「大友公園」(札幌市東区北13条東16丁目3)
   昭和42年(1967)、札幌市が土地区画整理事業により、この地に公園を設置しました。
   その際、厳しい北国の自然と闘い、遠大な理想をもって開拓を進めた先人の偉業を偲ぶ記念公園として、「大友公園」と名付けられました。当時の歴史再発見の広場となっています。詳しい歴史説明板があります。



畜産の指導者  エドウィン・ダン(1848~1931)を記念するもの 
① 「エドウィン・ダン像」(七飯町庁舎内)(札幌市南区真駒内泉町1-6真駒内中央公園内)
この「エドウィン・ダン像」は、彫刻家・峯 孝氏の制作で、昭和39年に建てられたものですが、明治初期に、ダンが畜産指導にあたった七飯官園と真駒内牧牛場との両地にあります。
② 「エドウィン・ダン記念館」(札幌市南区真駒内泉町1-6真駒内中央公園内)
    エドウィン・ダン(1848~1931)の指導により、明治9年(1876)から建設に着手、真駒内牧牛場の施設が整備されて、本格的な酪農畜産が、スタートしました。 明治26年(1893)には、北海道種蓄場になり、名実ともに、北海道の家畜改良や技術普及のセンターとしての役割を果たしてきました。しかし、戦後、米軍が接収されたため、新得町に移転しました。
  その後、この由緒ある建物をぜひ残したいということになり、昭和39年に、「エドウィン・ダン顕彰会」(現「ダンと町村記念事業協会」)により、現在地に移設され、関係資料を展示することになったものです。
  この記念館は、昭和40年から、一木万寿三画伯によるダンの生涯と業績を描いた絵画を中心に、北海道の開拓初期の写真、種蓄場の模型などを展示しており、平成12年に、国の登録有形文化財に指定されました。建物は昭和40年、札幌市に移管され運営されていましたが、老巧化のため約8,000万円をかけて本格的な改修工事を行い、平成15年5月リニューアルオープンを機に、地元住民「エドウィン・ダン記念館運営委員会」により運営されています。入館無料・9時30分~16時30分。(毎週水曜日休館・11月4日~翌4月末日は閉館です)


 HOMAS <NO、44>(2005,3,17発行)
提言紹介
 札幌に「ホーレス・ケプロン通り」を
   ―開拓使時代のメインストリート(北3条通り)をメモリアルロードにしよう―


  昨年11月27日(土)、道庁赤レンガ庁舎で「ホーレス・ケプロン(1804~1885)生誕200年記念の集い」(主催同実行委員会)が開催されました。
  明治政府は、明治2年(1869)7月、開拓使を設置、北海道の本格的な開拓に着手しました。そして、明治4年(1871)、黒田清隆の招きにより、開拓使顧問として来日したホーレス・ケプロンは、3年10ヶ月、日本に滞在しましたが、その間、科学技師アンチセル・土木技師ウオ―フィールドの開拓予備調査、その後のケプロン自身の3度にわたる北海道の実地調査に基づく貴重な 「ホーレス報文」 を残しました。さらに、帰国の際して、契約を延期して「報文要略」 をまとめ、開拓使に提出してから離日したのでした。(後に明治17年(1884)、勲2等旭日重光章が贈られています。) 「報 文」 は、北海道の開発計画を提案し、札幌を首都とすること、農業のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学学長ウイリアム・S・クラークを第一代教頭(学長)に迎えて札幌農学校が開設(明9.8.14)されています。第二代教頭となったのは、クラーク博士に随行して来道したウイリアム・ホイーラーでした。
  ケプロンの提言は、その後の北海道開拓の基礎的事業に関するものであると同時に、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その助言と示唆は、北海道の開拓・開発に対する重要な指針となるものであったといわれます。
「ホーレス・ケプロン生誕200年記念の集い」 は、このケプロンの偉大な業績を讃えるための道民有志の集まりとなりました。その後、提唱者の佐々木晴美氏(? 北海道開発技術センター顧問)を代表として、広く「道民有志グループ」 の運動として「ホーレス・ケプロン通り」 設置の気運が高まっています。
  その趣旨は、北海道の近代化に向けた開発の原点となった、ホーレス・ケプロンの業績を永く将来に顕彰するために、かつて「開拓使通り」と呼ばれた札幌市中央区北3条通りのうち、道庁赤レンガ庁舎前から永山武四郎邸(北2東6)までの区間(約1キロ)を「ホーレス・ケプロン通り」 の愛称で呼ぶことを提案するものです。
  この「〝ホーレス・ケプロン通り〝の愛称付与に関する提案書」 が、平成17年2月2日付けで、道民有志グループ(代表 佐々木晴美)から、高橋はるみ北海道知事、上田文雄札幌市長宛に提出されています。
  賛同者として、北海道日米協会会長有江幹男氏、北海道・マサチューセッツ協会会長森本正夫氏、後援機関として、在札幌米国総領事館総領事マリー・シェーファー氏、後援者として衆議院議員町村信孝氏の名前も連記されています。なお、当協会としましても、この運動を支援し、その実現に努めて参りたいと思います。


 HOMAS <NO、45>(2005,7,26発行)
「ホーレス・ケプロン通り」道民フォーラムのご案内 
―8月27日(土)13:00~16:00・道庁赤れんが庁舎(2F)―

明治4年(1871)、黒田清隆の招きにより、開拓使顧問として来日したホーレス・ケプロン(1804~1885)は、3年10ヶ月、日本に滞在しましたが、北海道の実地調査に基づく貴重な 「ホーレス報文」 を残しました。「報 文」 は、北海道の開発計画を提案し、札幌を首都とすること、農業のために高等教育機関を設置することなどを明治政府に進言しています。このケプロンの進言により、マサチューセッツ農科大学学長ウイリアム・S・クラークを初代教頭に迎えて札幌農学校が開設(明9.8.14)されています。ケプロンの提言は、その後の北海道開拓の基礎的事業に関するものであると同時に、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その助言と示唆は、北海道の開拓・開発に対する重要な指針となるものであったといわれます。
このケプロンの偉大な業績を讃えるため昨年11月27日(土)、道庁赤レンガ庁舎で「ホーレス・ケプロン生誕200年記念の集い」(主催同実行委員会)が開催されました。その後、提唱者の佐々木晴美氏(? 北海道開発技術センター創設者)を中心とする「道民有志グループ」 の運動として「ホーレス・ケプロン通り」 設置の気運が高まりました。そして、「〝ホーレス・ケプロン通り〝の愛称付与に関する提案書」 が、すでに、高橋はるみ北海道知事・上田文雄札幌市長に提出されて、賛同をいただいております。
  この度、実行委員会(委員長、森本正夫北海道・マサチューセッツ協会会長) を組織して、第1回「〝ホーレス・ケプロン通り〝 愛称付与推進道民フォーラム」開催の運びとなりました。その趣旨は、北海道近代化の開発の原点となった、ホーレス・ケプロンの業績を永く将来に顕彰するために、かつて「開拓使通り」と呼ばれた札幌市中央区北3条通りのうち、道庁赤レンガ庁舎前から永山武四郎邸(北2東6)までの区間(約1キロ)を「ホーレス・ケプロン通り」 の愛称で呼ぶことを提案するものです。
  当協会としましても、北海道・マサチューセッツ州姉妹提携15周年記念事業の一環として、マサチューセッツ州から明治期の北海道に注がれたケプロン、クラーク人脈の偉大な功績に思いを致し、この運動を推進しその実現に努めて参りたいと思いますので、ぜひ、多数の方のご参加をお願いいたします。
第 1回「〝ホーレス・ケプロン通り〝愛称付与推進道民フォーラム」ご案内
日  時 2005年8月27日(土)13:30~16:10
会   場  道庁赤れんが庁舎会議室(2階)  (参加費無料)
主   催 “ホーレス・ケプロン通り”愛称付与推進実行委員会
(愛称付与推進道民有志グループ、北海道日米協会、北海道・マサチューセッツ協会)
後  援 在札幌米国総領事館、北海道、札幌市など
プログラム 13:30―13:50  実行委員長あいさつ・在札幌米国総領事館総領事あいさつ
    メッセージ紹介(北海道知事、札幌市長)
13:50-14:10  室内楽演奏  (休憩15分間)
14:25-15:15   お話(1)お話(2)<15:15-15:30  質疑>
15:30-15:40 総括・アピールティーパーティー(15:40--16:10 会場で)
事前申込み(8月18日(木)まで)参加ご希望の方は、北海道・マサチューセッツ協会事務局( TEL 011-231-3392 FAX 011-231-3666 )  「氏名・住所・電話番号・FAX番号」明記の上、に電話又はFAXでお申込みください。



ページのトップへ戻る 

 

前のページへ | 次のページへ


ホームへ