北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -5-

HOMAS<NO、47>(2006,3,17発行)
本道の病院施設の充実や治療法の指導に尽力したカッター
ー学校生徒の身体賢さ・住民の診察やクマの解剖などの草分けー

  明治政府は、北海道開拓のために、明治2年(1869)に開拓使を設置し、顧問として米国農務省長官ホーレス・ケプロン(1804~1885)一行、地質測量のベンジャミンS・ライマン(1835~1920)、農業牧畜のエドウィン・ダン(1848~1931)等を迎え、その優れた指導力のもとに、いろいろな開拓事業を進めました。そして将来の人材育成のために、明治4・5年には多数の留学生をアメリカ・フランス・ロシア・に派遣しています。さらに、即戦力となる技術を身に付けた人材育成を目的とする高等教育機関の創設を意図し、明治5年3月、開拓使仮学校(東京芝)を開設、明治8年9月に札幌に移して「札幌学校」とし(札幌農学校の前身)、その模範を米国に求めたのでした。
  時の開拓次官黒田清隆の努力により、マサチューセッツ農科大学学長クラーク博士(1826~1886)とその教え子のホイーラー(1851~1932)、ペンハロー(1854~1910)の3名を迎えて、明治9年(1876)8月、札幌農学校を開校しました。それは、アマーストカレッジ及びマサチューセッツ農科大学の伝統を範としたものでした。その後も外国人教師として、ブルックス(1851~1938)、カッター(1851~1909)を迎え、さらにピーボディー(明11、12着任ー明14、7離任)、サマーズ(明13、6着任ー明15、6離任)、ストックブリッジ(明18、5着任ー明22、1離任)、ヘート(明21、1着任ー明25、8離任)、ブリガム(明22、1着任ー明26、11離任。外国人教師の最後)など合計10名を迎えています。これら札幌農学校初期の米国マサチューセッツ州出身の教師は、総じて勤勉で献身的に職務以外の仕事にも非常に熱心に取り組み、ほんとうに北海道開拓期の立派な指導者でした。
  今回は、明治11年(1878) 9月来札、当初2年の契約を再三にわたり更新し、札幌農学校在職はブルックス(10年半)に次いで長い8年半となったジョンC、カッター(1851-1909)の業績について取り上げてみたいと思います。
  ジョン・クラレンス・カッターは、1851年7月10日、マサチューセッツ州ウォレン(ウースターの南西部)で優秀な医師カルヴィン・カッターの長男として出生。名家の出であった母親も、夫の著作活動を手伝うほどの教養のある女性であったといわれ、この家庭環境が後の博学で教養豊かなカッターを育む素地となったのではないかといわれています。
カッターは、1872(明5)マサチューセッツ農科大学卒業後、フィラデルフィアのリッピンコット出版社勤務を経て、ダートマス大学医学部聴講2年の後、ボストン市立病院の外科医となっています。
その後、ハーバード大学医学部に入学、1877年(明10)卒業。クラーク博士の推挙により、1878年(明11)9月来札しています。札幌農学校の英学・生理学教授として招かれました。また、獣医学・水産学教育の創始者といわれます。札幌農学校校医・開拓使医学顧問を兼任、さらに官立札幌病院においても医師の指導及び一般患者の診療に当たるなど医師として献身的に活動したといわれます。札幌農学校の教育方針は、クラーク博士をはじめ多くの外国人教師の指導は、専門科目のみならず「汎く諸派に渉る」学課に及びました。
  札幌農学校出身の大英学者といわれる新渡戸稲造は、後年回顧して、カッターの英語・英文学の授業が教養豊かな人格に裏打ちされたきわめて優秀なものであったと絶賛しています。
  カッターは病院施設の充実や学生の健康管理についても細心の注意を払い、定期的な身体検査も実施しました。また、無医村地区へ治療に出かけることもあったといわれます。
  カッターは多くの外国人教師の中で、最高の学職を有する篤実な人格者として人々の尊敬を集めたといわれます。契約期間は、2年でしたが、契約更新を重ねて、札幌に8年4ヶ月在住。1887年(明20)1月20日、ヨーロッパ経由で帰国しました。明治政府は、カッターの多年にわたる教育・診療指導の功績に対して、帰国に際し勲4等旭日小緩章を授与しました。カッターはこのことを終生の誇りとしたといわれます。
帰国後は、1887年(明20)、医学研究のため1年間ドイツ留学。マサチューセッツ州ウースター市で病院を開業しています。しかし、1893年(明26)母没後は、医院を閉鎖して、メキシコ、カリフォルニア州で過ごし、米国各州を旅行しています。
  1897年(明30)以後は、医院開業時の感染による敗血病に加えて卒中にかかり体調をくずして、没するまでずっと病身でした。1909年(明42)、2月2日、脳出血により死去しました。享年57歳でした。生涯独身。ウォレンの墓地に埋葬され、墓碑には、日本政府から授与された勲4等を示す「Meiji Ⅳ Japan」が刻まれています。
  1910年(明43)、遺言により札幌市民のための「公共水飲み場」建設資金が札幌市に寄付されました。五百ドル(当時の日本円で1,025円19銭)は銀行に預金されたままとなり、諸般の事情により昭和13年(1938)大通公園聖恩碑建設に際し、その四隅に「水飲み場」が設けられ、昭和14年(1939)に完成しています。その資金としては、その時元利合計4,215円となっていた「カッターの寄付金」が支出されたのでした。
  この「カッターさんの水飲み場」は、今日その歴史的由来はほとんど知られることなく、ひっそりと存在しています。

 この「カッターさんの水飲み場」については、北1西5の元道立美術館前のニレの木の下に昭和12年ごろ造られたものという説が有力で、昭和42年道路拡張工事の犠牲となって、老木と一緒に撤去されたというのが通説となっていました。<br>
しかし、札幌市内の医師宮下舜一氏の調査研究により昭和60年になって次のことが解明されたのです。昭和12年の札幌市決裁文書に「聖恩碑の着工に28,215円支出することで市会の議決を得た」とあり、その中に「カッター氏寄付金4,215円」も含まれるという記述が確認されたのです



                            HOMAS<NO、48>(2006,7,31発行)
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第 2回「”ホーレス・ケプロン通り〝愛称付与推進道民フォーラム」ご案内

日  時 2006年9月2日(土)13:10~16:10  
会   場  道庁赤れんが庁舎会議室(2階)  (参加費無料)
主   催 “ホーレス・ケプロン通り”愛称付与推進実行委員会 &北海道
(構成団体:愛称付与推進道民有志グループ、北海道日米協会、北海道・マサチューセッツ協会、
沿道町内会、NPO日本都市計画家協会、(社)北海道観光連盟、(社)札幌観光協会 )
後  援 在札幌米国総領事館、(社)北方圏センター、(財)札幌国際プラザ 
プログラム 13:10―13:30  実行委員長挨拶・在札幌米国総領事館総領事挨拶
13:30-13:55 基調講演(佐々木晴美氏)
(休憩15分間) 交流ティータイム
14:10-14:25  室内楽演奏
14:30-16:00  パネルディスカッション
16:00-16:10 総括・アピール
◎事前申込み(8月28日(月)まで)、当日参加も歓迎いたします。
参加ご希望の方は、北海道・マサチューセッツ協会事務局( TEL 011-231-3392 FAX 011-231-3666 )あて
「氏名・住所・電話番号・FAX番号」明記の上、電話又はFAXでお申込みください。





 HOMAS<NO、48>(2006,7,31発行)
今年2006年はクラーク博士ご一行来道130周年 
-曽孫スチュ―・クラーク氏ご夫妻 9月末来道の予定―

ウィリアム・S・クラーク博士(1826-1886)は、優秀な教え子のウィリアム・ホイーラー(1851ー1932)、デヴィド・P・ペンハロー(1854ー1910)とともに、開拓使長官黒田清隆の招きにより、明治9年(1876)6月来日、東京滞在後、7月25日品川沖から開拓使御用船「玄武丸」に乗り、黒田清隆等とともに7月30日午前10時30分小樽に到着。午後3時小樽上陸(1泊)、翌31日 (50歳の誕生日)早朝馬に乗って出発、午前10時40分札幌に到着したといわれます。今年は、ちょうど来道130周年にあたります。
   クラーク博士は、北海道開拓の人材育成のために開設された札幌農学校(8月14日開校)の初代教頭となり、その翌年4月までの8ヶ月半その経営・指導に尽力され、そのキリスト教精神による人間教育は多くの学生に深い感銘を与えました。そして、明治10年(1877)4月16日、学生・教授たち全員が見送る中、島松駅逓で、“Boys be ambitious!”の言葉を残して、馬にムチを当てて走り去りましたが、その高邁なクラーク精神はゆるぎないフロンティアスピリッツとして、今日までこの北の大地にしっかりと根付いています。
   クラーク博士の札幌農学校初代教頭としての功績、その識見と人格が偉大であり、その高邁なクラーク精神は、直接その薫陶を受けた第一期生のみならず、それに続く学生たちにも深く浸透したのでした。クラーク博士の札幌農学校在職は8ヶ月半に過ぎませんが、帰国後も、師弟の絆は、多くの往復書簡に継続されています。
 後に、「第4期国定教科書」の「小学国語読本」巻11(昭8~昭13)に、クラーク博士の胸像と「少年よ、大志を抱け」の言葉が紹介され、全国的に有名になりました。さらに、「第6期国定教科書」(昭22~昭24)の「国語第5学年中」・「国語第6学年下」にも、クラーク先生の言葉の紹介や同志社を開いた新島裛の恩師クラーク博士の説明があり、いっそう全国的に有名になったと考えられています。
   その後、北大創基50周年・80周年・100周年などにクラーク博士をたたえる記念事業が実施されてきました。最近では、2001年(平成13年)が来道125周年にあたり、9月27日(木)~10月3日(水)を「記念ウィーク」として、9月28日(金)を中心に記念式典や記念講演などが行われました。 今年2006年の来道130周年は、特別の記念行事の計画はありませんが、クラーク博士の祖孫スチュ―・クラーク氏ご夫妻が9月28日から約1週間の予定で来道されます。スチュ―・クラーク氏は米国アラスカ州スワード市の元市長の要職にあたった方で、今回の訪問は、帯広市とスワード市が姉妹提携(1968年)の国際姉妹都市の関係にあるので、帯広市と札幌市に来訪される予定です。札幌では、北海道庁・北海道大学などの表敬訪問や交流行事、各地の観光・視察などが予定されます。帯広では、姉妹校流の歓迎セレモニーや交流行事・ホームステイ交流なども考えられているようです。
 また今年7月には、コンコードグループ(代表Dr.カーチン・11名)が来札、郷土コンコードが誇りとしている札幌農学校第2代教頭ウィリアム・ホィーラーの設計した「時計台」(札幌農学校演武場)あや「モデルバーン(模範畜舎)」(北大構内)などを視察してまわり、来道130周年の歴史に感慨を深くしていました。




                            HOMAS<NO、48>(2006,7,31発行)
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第 2回「”ホーレス・ケプロン通り〝愛称付与推進道民フォーラム」ご案内

日  時 2006年9月2日(土)13:10~16:10  
会   場  道庁赤れんが庁舎会議室(2階)  (参加費無料)
主   催 “ホーレス・ケプロン通り”愛称付与推進実行委員会 &北海道
(構成団体:愛称付与推進道民有志グループ、北海道日米協会、北海道・マサチューセッツ協会、
沿道町内会、NPO日本都市計画家協会、(社)北海道観光連盟、(社)札幌観光協会 )
後  援 在札幌米国総領事館、(社)北方圏センター、(財)札幌国際プラザ 
プログラム 13:10―13:30  実行委員長挨拶・在札幌米国総領事館総領事挨拶
13:30-13:55 基調講演(佐々木晴美氏)
(休憩15分間) 交流ティータイム
14:10-14:25  室内楽演奏
14:30-16:00  パネルディスカッション
16:00-16:10 総括・アピール
◎事前申込み(8月28日(月)まで)、当日参加も歓迎いたします。
参加ご希望の方は、北海道・マサチューセッツ協会事務局( TEL 011-231-3392 FAX 011-231-3666 )あて
「氏名・住所・電話番号・FAX番号」明記の上、電話又はFAXでお申込みください。




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