北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -4-

HOMAS<NO、46>(2005,12,15発行)
多くの製造実験を行ったペンハロー(札幌農学校第3代教頭)と北海道農法の基礎を築いたブルックス(札幌農学校の第4代教頭)

  明治9年(1876) 3月3日、マサチューセッツ州立農科大学長クラーク博士は、ワシントンにおいて1年間の雇用契約(年俸7200ドル)を結び、来日を決めました。同年6月1日、サンフランシスコをグレートリパブリック号で出発、6月29日横浜到着。東京滞在後、7月25日品川沖から開拓使御用船「玄武丸」に乗り、7月30日午前10時30分小樽に到着。午後3時小樽上陸、一泊して7月31日早朝小樽を馬に乗って出発、午前10時40分札幌に到着したのでした。ウイリアム・S・クラーク博士(1826-1886、当時50歳の誕生日)と優秀な教え子のウイリアム・ホイーラー(1851-1932、当時25歳)、デヴィド・P・ペンハロー(1854-1910、当時22歳)の一行3人はこうして札幌入りしたのでした。ホイーラーは、明治10年(1877) 4月16日クラーク博士離札後、教頭代理となりますが、明治12年(1879) 12月帰国しています。その後、ペンハローが教頭代理となりますが、明治13年(1880)8月妻の病気のため帰国(4年3ヶ月滞在)。少し遅れて明治10年 (1877) 2月に来札していたウイリアム・P・ブルックス(1851-1938,当時26歳) は、その後札幌で2人の子ども(道産子)も生まれ、10年7ヶ月余の札幌滞在となります。このブルックスが、明治13年(1880)8月、ペンハローのあとを引き継いで第4代の教頭代理となっています。(また、明治11年(1878)9月には、ジョン・C・カッター(1851-1909) が来札、8年4ヶ月滞在しています。(次号で詳述します。)
  「札幌農学校」は、明治9年8月14日開拓使の調所広丈を校長とし、クラーク、ホイーラー、ペンハローを教師陣として、本科生24人、予科生26人、合計50人の学生を迎えて開校しました。(これは、東大農学部(駒場農学校)の開校よりも1年半早く、日本最初の高等農学校といわれます。) 初代教頭クラーク博士の敬虔な信仰心と高邁な理想による建学の思想と第2代教頭のウイリアム・ホイーラー(年俸3,000ドル)の人格的教育的感化力の偉大については、「HOMAS」45号に詳述しましたので、今回は、デヴィット・P・ペンハロー(年俸2,500ドル)とウイリアム・P・ブルックス(年俸2,500ドル)の業績について取り上げてみたいと思います。
  ペンハローは、ホイーラーよりも3歳年下で、1854年5月25日メイン州キタリ-・ポイント生れ。マ州立農科大学出身(3期生)で、明治9年(1876)7月、クラーク博士・ホイーラーとともに札幌農学校に着任しています。植物学・化学・英語を担当しました。明治13年(1880)8月までの約4年間在任しました。
  彼は、自ら設計した化学実験室で繊維、農産物、鉱石、土壌などの成分分析や石鹸、ローソク、マッチ、皮革、コークス、魚油などの製造実験も行っています。農業においてもビート栽培などの研究に功績を残しました。いつもニヤニヤして山羊のようなあごひげをはやしていたところから、「ゴート先生」とあだ名されていました。ペンハローは、また開拓使の求めに応じて化学分析その他で多様な貢献をしています。樹脂製造調査、各地産の鉱物や土質の分析、道産の石油試験、札幌ビールや日本酒の分析、麦芽病源調査など、開拓使は農学校のような整った化学実験室や専門家をもたなかったことから、全ての化学分析はペンハローに依頼されたようです。
  また、学生と植物、昆虫、動物の標本採集などのフィールドワークにも出かけています。この折の資料が、米国帰国後の学術論文に活用されているといわれます。彼は札幌農学校の仕事には、満足して、自ら進んで契約を更新し、米国に残してきた妻にも北海道に来るように手紙を出していたといわれます。明治12年(1879)12月ホイーラーの帰国後は、第3代教頭代理となりますが、翌年夏明治13年(1880)8月には、妻の病気のため、4年3ヶ月にわたる札幌の生活に終止符を打って帰国することになります。
 ペンハローは、帰国後、ニューヨーク州のホートン農業試験場の研究員になりますが、1883年閉鎖となり、その後、カナダのモントリオールのマクギル大学の植物学の講師、2年後に教授に昇進。古生物学の権威として多くの論文を発表し、後に、アメリカ博物学会・アメリカ果実栽培学会などの会長を務めています。
  ペンハローは、日本人の国民性をよく理解し、日本が欧米に比べて決して後進国ではなく、むしろ優れた文化や技術をもった国であると強調しています。
 1907年10月、マ州立農科大学創立40周年を記念してクラーク・ホールの落成式がおこなわれたとき、ペンハローが、クラーク博士をしのぶスピーチを述べています。主に科学的農業の発達におけるクラークの役割と「高い理想、たゆまざる努力、揺らぐことのない目的意識」を持つ人として、クラークの日本での活躍に言及して、「クラーク学長の仕事のなかで、おそらく西欧文明の最善の部分を取り入れようと努力する日本人に協力したことほど、恒久的な印象と影響力を残したものはない」とその功績を讃えています。クラークの影響力を示す強力な証拠としてペンハローがあげたものは、札幌農学校の卒業生の活躍だったといわれます。
  大学での忙しい仕事をこなしながら、生物試験場の設立に多くの時間と労力を注いだペンハローは健康を害し、1910年、大学を休職、そして10月20日、リヴァプールから静養先のコーンウォールにむかう船上で、帰らぬ人となりました。享年56歳でした。友人は追悼文の中で、「疲れを知らないかのように働き、仕事に情熱を傾けた人」「なにが正直で正しいかについて強い信念を持ち、表明することを恐れない立派な人格者」そして「日本国民に熱烈な敬愛の念」を抱いていた人として、ペンハローを偲んだといわれます。
  ブルックスは1851年11月19日マ州サウス・シチュエィト村の農家の生れ。11人兄弟の10番目。1875(明5)年、マ州農科大学(5期生)卒業。クラーク博士の後任として抜擢され、少し遅れて来札。農学と農業実習を担当しクラーク博士帰国後農園長を兼務しました。そして、北海道の特産品となった丘珠タマネギや暗渠土管の紹介、とうもろこし、かぼちゃ、燕麦、キャベツ、亜麻、ビート、トマト、コーンなどの導入に努力し、家畜・農業機械・種子の輸入や土地・気候・肥料などの試験により最適の作物の選定・栽培法の検討も行うなど、学内外に多大の功績を残しています。また、北海道最初の農業雑誌の発行や最初の農業博覧会(明治11年大通り公園)も彼の提唱によるものでした。明治13年8月、第4代教頭心得となり、契約更新を重ねて、以後6年間、札幌農学校を率いたのでした。ブルックスもよく日本人を理解し、相手の視点を理解しようとする寛容さと誠実さを持って努力した人でした。ブルックス夫妻と二人の子ども(道産子)は、札幌の気候と札幌の人々を愛し、市中散歩の折には、よく子どもたちに声を掛け、また「ブル先生、ブル先生」と呼ばれ、人気が高かったといわれます。
  明治21年(1888)、10年余の札幌滞在の後、帰国しました。翌年母校マ州立農科大学の教授となり、また、大学付属農業試験場の運営にもあたりました。1899年、ドイツのハレ大学に留学して博士号取得後、再び母校の教授を務め、一般農民の指導にも力を入れました。かつて、北海道にアメリカの農産物を導入したブルックスは、逆に日本特有の品種をアメリカに紹介することにも感心を持ち、特に大豆の移植に成功したといわれます。1906年(明治39)からは州立の農業試験場長として農業振興に努力しました。
  ブルックス家を訪れる人たちは、彼が札幌で過した歳月を象徴するかのように咲き誇るみごとな庭の桜に見とれたといわれます。大正8年(1919)、日本農学博士、1932年(昭和7年)母校から名誉農学博士を贈られています。1938年(昭和13年)3月8日死去。享年86歳でした。


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