北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -14-

HOMAS <NO.59 2010,3,10発行>
開拓使麦酒醸造所を実現した村橋久成の生涯と業績
-薩摩藩英国留学生、そして黒田清隆とともに箱館戦争終結・開拓使事業に尽力ー

■まえがきー明治維新の原動力
  薩摩藩(現在の鹿児島県)は、明治維新と日本の近代化に有為の人材を多く輩出しています。・・・西郷隆盛、大久保利通。そして蝦夷から北海道への転換期の北海道近代化の推進力となった開拓使(明治2年7月~明治15年)時代の指導者の多くも、薩摩藩の出身でした。・・・黒田清隆、村橋久成、永山武四郎、時任為基(函館県令)、調所廣丈(初代札幌農学校長・札幌県令)、湯地定基(根室県令)、園田安賢(第8代北海道庁長官)、河島醇(第9代北海道庁長官)、山之内一次(第11代北海道庁長官)・・・。
江戸期の薩摩藩は、加賀百万石に次ぐ七十七万石の大国といわれます。しかし、1600年の関ヶ原合戦で西軍として徳川軍と戦って敗れ、領土没収は免れたものの、農民の人口比率が低いこと・毎年の台風被害などにより貧乏国となったようで、琉球・中国との貿易などをすすめ、財政建て直しを急務としていました。幕末には、藩主島津斉興の家臣調所広郷の強硬策により立て直しに成功したといわれます。次の藩主島津斉彬(1809-1858)は進歩的で広い視野の持ち主でした。斉彬は、早速、鉄を重要視してその実験室ともいうべき[花園製錬所]やその鉄工場群「集成館」などを建設します。そこでは、鉄砲・大砲などの武器や農具・薩摩切子のガラス製品などを開発しています。また藩校「造士館」、さらに洋学教育学校「開成所」を設置しています。この西欧の学問や新しい技術をいち早く導入する先見の明が、日本近代化の原動力となったのでした。
  鹿児島中央駅前に、この近代日本の開花期に大きな役割を果たした「若き薩摩の群像」(昭和57年・中村晋也作)が建てられています。薩摩藩が、*「生麦事件」(1862・文久2、8,21)に対する英国の賠償金請求を拒否したために、1863年(文久3、7,2)英国艦隊7隻が鹿児島湾に進入、激しい砲撃戦となりました。この[薩英戦争]により西欧文明の威力を痛感させられた薩摩藩は、前藩主島津斉彬の遺志を継いで、1865年鎖国の禁を犯して19名の薩摩藩留学生を英国に派遣しています。彼らの多くは、幾多の困難を克服して学問や技術をおさめ、帰国後各分野ですぐれた業績をのこすこととなります。
  その1人が、村橋久成(1842-1892)でした。村橋は、帰国後、黒田とともに戊辰戦争に加わり・箱館戦争では官軍の軍監として榎本への降伏勧告の任に当たっています。その後、開拓使に出仕して勧業事業を担当し、農事試験場「官園」の設置、「琴似屯田兵村」の建設、「開拓使麦酒醸造所」(現在サッポロビールの前身)創設など、北海道開拓事業に尽力しました。今回は、この「村橋久成」の生涯と業績を掘り起こしてみたいと思います。 <*「生麦事件」=「HOMAS」58号2頁参照>

(資料)若き薩摩の群像=1865年(慶応元年)薩摩藩派遣英国留学生
[薩摩藩英国使節団―4名]
新納久修(団長格・紡績機械買い付け)  松木弘安(御船奉行・帰国後博物館創立者)  五代友厚(御船奉行見習・紡績機械買い付け、後初代大阪商工会議所会頭)  堀孝之(英語通弁)
[留学生―15名]
  町田久成(開成所掛大目付学頭・海軍測量学)  村橋直衛(小姓組番頭・陸軍学術、後開拓使事業に洋式農業技術導入)  畠山義成(当番頭・陸軍学術、帰国後渡米法律政治学を治め初代東京開成学校長<現東大>)  名越時成(当番頭・陸軍学術)  鮫島尚信(開成所句読師・文学を学ぶ、帰国後渡米,後初代在外公館弁務使<フランス駐在・特命全権公使>)    田中盛明(開成所句読師・化学を学び渡仏、帰国後兵庫県生野鉱山局長)  中村博愛(医師・医学を学び渡仏、帰国後開成所フランス語教授、後外交官<オランダ・ポルトガル・デンマーク公使>)  森有礼(開成所諸生・帰国後渡米、後初代駐米大使、初代文部大臣)  吉田清成(開成所句読師・海軍測量学、帰国後渡米政治経済学を学び、明治政府の財政・条約改正問題に取り組む、後駐米公使)  市来和彦(奥小姓開成所諸生・海軍測量学、帰国後渡米、後海軍兵学校長)  高見弥一(開成所諸生・海軍測量学、帰国後中学校数学教員)  東郷愛之進(開成所諸生・海軍機械術、慶応4年病没)  町田実積(開成所諸生・海軍機械術)    町田清次郎(開成所諸生・15歳幼少のため勉強科目を決めなかった)  磯水彦助(開成所諸生・13歳幼少のため勉強科目を決めなかった、スコットランドへ移り、後渡米して広大なぶどう園経営・葡萄酒製造に努め、ぶどう王として生涯を送っています。)

■村橋久成の生立ち
  村橋久成(直衛)は、1842年(天保13年)10月、薩摩藩主島津家の一門である加治木島津家分家、村橋久柄の長男として出生。のち直衛、久成と改名。その幼少期については不明。幕末の薩摩藩にはきびしい階層がありました。鹿児島城下に住む城下士、地方に住む郷士に大別され、さらに城下士は御一門四家(隈州重富家・同加治木家・同垂水家・薩州今和泉家)を頂点に九つの家格に分かれていました。1848年(嘉永元年)、父村橋久柄は琉球着任の船が難破して行方不明となり、久成6歳にして家督を相続して、後、将来家老職に就くべき役職の御小姓組番頭として登城します。古い秩序が崩壊して行く時代の空気の中で、藩校「造士館」に学び、さらに俊才として、「開成所」(1864年・元治元年設立)諸生に選ばれて新しい洋学教育を受けます。そして翌年1865年(慶応元年)3月、23歳、薩摩藩派遣英国留学生の1人に選ばれて渡英、ロンドン大学法文学部で陸軍学術研究をめざします。
  薩摩藩は生麦事件に端を発する「薩英戦争」(1863)で英国と、長州藩は攘夷の実行と称して次々と外国船を砲撃したことにより連合艦隊の長州藩総攻撃という「下関戦争」(1864)で 英・仏・蘭・米と対戦して大打撃を受けます。鎖国の眠りから西欧列強の圧倒的な武力と先進文明に覚醒させられたのでした。そして、長崎のグラバー邸で知られる英国商人トーマス・ブレーク・グラバー(1838~1911)の「グラバー商会」の手引きを通じて薩長両藩の英国ロンドン大学留学生派遣が実現します。
  薩摩藩は、1865年(慶応元年)、4名の使節団と15名の留学生「サツマスチューデント」を派遣します。幕府の鎖国令下のため、全員変名で、甑島大島辺出張という名目で、3月23日朝、串木野羽島浦からグラバー商会が用意した蒸気船「オースタライエン号」で密かに出港しています。一行は、シンガポール・スエズ・地中海を経て、約2ヶ月後の5月28日英国サザンプトン港着、同日夜ロンドンに到着します。「グラバー商会」のライル・ホームというイギリス人の世話で、学生たちはロンドン大学に留学します。一行は途中、船上で髷(まげ)を切り落としたといわれます。
  一方、長州藩は、1863年(文久3年)5月12日、5名の青年のロンドン留学を黙認して、グラバー商会の手引きで横浜港から密出国させています。井上馨(後初代外務大臣)・遠藤勤助(後造幣業に尽力、造幣局長)・山尾庸三(グラスゴーで造船を学び、明治4年工学寮<東大工学部>創立、法制局長官)・伊藤博文(初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法発布)・井上勝(後鉄道の父。新橋-横浜間日本初の鉄道敷設。鉄道庁長官、小岩井農場創設者)のいわゆる「長州ファイブ」です。井上馨と伊藤博文の二人は、ロンドンの新聞紙上で薩英戦争勃発・迫り来る下関総攻撃の危機のことを知り、世界情勢を藩に説得するために、翌年3月急遽帰国しています。その後、1865年(慶応元年)、奇しくもロンドンで、薩摩藩留学生と長州藩残り三人の留学生が面会しています。<「畠山義成洋行日記」にその経緯が記されています。>
  村橋は、ロンドン大学の専攻を、当初海軍だったのを渡航後陸軍学術に転向しています。英国滞在中、イギリスの世界最先端の近代農業の姿を見聞したことが、帰国後、開拓使で北海道の近代農業推進に大きく役立つこととなります。イギリス到着後約2ヶ月の7月29日、一行はロンドンの北約70キロのベッドフォードの鉄工所見学・ハワード農園見学に出かけています。最新式の蒸気機関諸機械とその操作方法、また人馬による農耕しか知らなかった目には自動鋤・刈取機などの農業機械は大きな驚嘆であり、感動的な体験であり近代的農業との鮮烈な出会いだったといわれます。
  村橋は、多くの強い衝撃をうけて、1866年(慶応2年)3月28日、ロンドンを発ち、松木弘安・イギリス人2名とともに、滞英1年で他の留学生より先に帰国の途につきました。約2ヶ月後上海着、イギリス帆船に乗り換えて、帆船操縦術習得のため同乗していた紀州藩士陸奥宗光(後の外務大臣)とともに5月24日、薩摩阿久根に到着。翌日村橋と松木は鹿児島城下に入りました。村橋が英国に留学していた期間は、幕末の動乱期にあり、時代は、一気に討幕・維新にむけて動きだしていました。
  1867年(慶応3年)10月大政奉還、翌年慶応から明治へと年号があらたまります。旧幕府軍と薩長を中心とした新政府軍が激突する戊辰戦争で幕をあけます。

■戊辰・箱館戦争に活躍、開拓使出仕
  村橋は、1867年(慶応3年)秋結婚。そして翌年7月16日、戊辰戦争の加治木大砲隊長として250名の部下をひきつれて出陣し、東北各地を転戦しています。箱館戦争では、新政府軍の軍監として、参謀黒田清隆とともに活躍します。旧幕府軍との和平交渉のキーマンとなり、箱館病院長高松凌雲を通して榎本武揚に降伏を勧告します。しかし榎本は、徹底抗戦を伝える返書と日本海軍の将来のためにと「海律全書」(榎本がオランダ留学中に手にいれて長く秘蔵していた書物)を、高松を通じて官軍の総参謀黒田清隆に贈ったのでした。黒田は返礼として酒五樽と鶏卵500個を贈って篭城の労をねぎらったといわれています。しかし、数日にして榎本軍は降伏を表明して、五稜郭は落城します。村橋はこの箱館戦争終結の決定的な現場に立ち会っていたのです。戦後、村橋は7月14日、郷里に戻りますが、長男亀千代(久次)は顔をみることなく夭折、妻志うは実家に戻っていました。
  1871年(明治4年)11月、開拓使東京出張所に出仕。次官(のち長官)黒田清隆に用いられて、翌年東京官園勧業事業を担当、1873年(明治6年)12月七飯開墾場の責任者となり農業振興に努力します。
  1874年(明治7年)、ケプロンの進言により、屯田兵最初の入植地を札幌郡琴似村と定めて、兵屋208戸・中隊本部・練兵場・授産所などを建設しますが、この「琴似屯田兵村」建設の任にあたったのも村橋久成でした。翌年5月、屯田兵・家族965人第1陣が入植し、以後、北海道には、最終的に37の兵村が出来、合計約4万人が入植します。<屯田兵制度は1904年(明37)廃止まで続きます。>
  1871年(明治4年)9月、開拓使は、東京の青山・赤坂・麻布に農事試験場「官園」3ヶ所設置して、アメリカから輸入した動植物を管理しました。(この建設・事業責任者に、村橋久成が任命されています)。開拓使は、「将来北海道で栽培する農作物は、まず東京の官園で試験栽培し、成功のメドがついてから、北海道に移殖しよう」と考えていました。後に、北海道の七重官園(のち七飯勧業試験場)・札幌官園が設置されました。札幌では、札幌本庁敷地北側に3600坪(後に40万坪に拡大)の御手作場を設け、さまざまな農作物が栽培され「葡萄園」・「ホップ園」・「果樹園」なども設けられました。その後、1876年(明治9年)には、この官園のうち、30万坪が札幌農学校農場に移管されました。
  開拓使は、1875年(明治8年)、「麦酒醸造所建設」も、まず東京青山の官園で試験をすることにしました。しかし、開拓使東京出張所農業課の最上職の村橋は、北海道には、建設用の木材・水・冷製ビールに必要な氷雪などが豊富にあり、最初から札幌に建設すべきことを建議して、その主張が認められたのでした。それ以前に、アンチセルが岩内で、そしてボーマーも日高で野生のホップを発見し、ケプロンに報告していたことも作用したかもしれません。

■開拓使麦酒醸造所建設と中川清兵衛
  1876年(明治9年)5月、いよいよ、「創成川以東は工業地帯にすべし」というケプロンの進言を受けて造成されていた開拓使通り(現在の北3条通り)の創成川東の事業所群ゾーンに、「開拓使麦酒醸造所」「葡萄酒醸造所」「製糸所」の三つの施設建設をすすめられ、また鶏卵孵化場、仮博物館、牧羊場なども創設され、北海道産業の基礎が固められていきました。
  村橋(33歳)は、青木周蔵の紹介で、ドイツビール醸造法を習得した中川清兵衛(28歳)を迎えて、いわば二人三脚の努力で、日本最初の本格的な官営のビール工場を完成させたのでした。1876年(明治9年)9月23日開業式の時、ビール樽を並べて白い塗料で「麦とホップを製すればビイルといふ酒になる」と大書させた写真が残っています。
技師の中川清兵衛(1848~1916)は、越後国三島郡与板(現在新潟県長岡市)出身で、17歳の時、横浜のドイツ商館に勤務。幕府の禁を犯して1865年(慶応元年)4月イギリスへ渡航、1872年(明治5年)ドイツへ移り、当時ドイツ留学中の青木周蔵(後に外務大臣)の支援をうけて、最大のベルリンビール醸造会社ティボリ工場で修業します。2年2ヶ月後の1875年(明治8年)5月、同社社長・工場長・技師長連盟の豪華な「修業証書」(現在サッポロビール博物館所蔵)を受けて帰国しています。
  この厳しいビール醸造技術を習得した中川技師抜きには、「開拓使麦酒醸造所」(今日の「サッポロビール」)の誕生はなかったのです。中川は、醸造所の設計・機械・予算などのすべてをまかされて、苦労の末、翌年6月、日本人の手のよるドイツビールの醸造に始めて成功したのでした。中川は、開拓使から高給を支給され、札幌で大きな洋風官舎住んだといわれます。
  中川が造ったビールの宣伝コピーは、「風味爽快ニシテ健胃ノ効アリ」でした。1881年(明治14年)明治天皇が醸造所を行幸された際には、中川自身が天皇のジョッキーにビールを注いだという記録も残っているそうです。1885年(明治18年)、醸造所は民間に払い下げとなり、実業家大倉喜八郎経営のサッポロビール誕生となります。翌年招いたドイツ人技師マックス・ポールマンと中川は意見が合わず、1891年(明治24年)2月、このビール会社をやめて家族とともに小樽へ移住、「中川旅館」(現在の「ホテルふる川」のある所)を経営したといわれます。1898年(明治31年)繁盛していた旅館を手放して横浜へ移住。そして1916年(大正5年)食道癌で死去、享年69歳でした。彼の末期の水は生前の希望によりサッポロビールでなされたといわれます。

■開拓使辞職
  1877年(明治10年)6月、「冷製札幌麦酒」と名づけられた札幌産のビールがはじめて東京に到着したときは、輸送の長旅のあいだに内圧によってコルクが抜けて中身が噴出してしまうような状態であったようです。その後、ホップとビール酵母の確保・ビンの確保・輸送手段などあらゆる困難を乗り越えて、ビール生産がようやく軌道にのっていました。しかし、村橋は、1879年(明治12年)1月、病気療養のため、1ヶ月間熱海温泉へ出発、その後東京在勤となり、勧業課長に任ぜられます。
  村橋は、1880年(明治13年)5月13日進退伺を黒田長官に提出するも却下され、6月9日、勧業試験場長に任ぜられます。しかし突然、翌年5月4日、開拓使を辞職します。5月11日「奉職中職務格別勉励として慰労金200円下賜されています。北海道近代的農業の実現に情熱を傾注してきた村橋にとっては、明治13年11月の官有物民間払い下げ公示後、「薩摩閥の官財癒着」として新聞にすっぱ抜かれた一大スキャンダル・明治15年開拓使廃止決定などによって、夢を打ち砕かれた大きな憤りと絶望だったようです。
辞職後の村橋は、その後ぷっつりと音信を絶ったのです。どこでどうしていたのか、今日でもその経過はいっさい謎のままになっています、・・・雲水のような身なりに姿を変えて、十数年間各地を行脚放浪していたのではないかと推測されています。その果てに、1892年(明治25年)9月25日、神戸の路上で倒れていたところを発見されたのでした。

■結び・村橋久成の死
  1892年(明治25年)9月25日、神戸市葺合村六軒道の路上で、巡視中の巡査が倒れ伏して動かない男性を発見しました。男は取り調べに対して最初は偽名を名のり、身元が判然としないまま、衰弱が激しく、3日後の9月28日夜息をひきとりました。身元不明のまま遺体は、神戸の墓地に仮埋葬されました・・・・<死亡認(診断書)は、肺結核・心臓弁膜病>。
  そして、半月後の10月10日の「神戸又新日報」に次のような死亡広告が載ったといわれます。
鹿児島県鹿児島郡塩屋村  村橋 久成
1、 相貌 年齢四十八歳、身幹五尺五寸位。顔丸ク色黒キ方、薄キ当痘痕アリ。
目大ニシテ鼻隆キ方。前歯一本欠。頭髪薄キ方。其他常体。
1、着衣 紺木綿シャツ一枚、白木綿三尺帯一筋。
右ノ者本年九月二十五日當市葺合村ニ於テ疾病ノ為メ倒レ居リ、當庁救護中
同月二十八日死亡ニ付、仮埋葬ス。心當リノ者ハ申出ヘシ。
明治二十五年十月  神戸市役所
さらに、10月18日、新聞「日本」雑報欄に、この死亡広告を転載、「英士の末路」という次のような記事が掲載されたのです・
  この行倒人村橋久成とは、そも如何なる人の身の果てなるや。またこれ当年英豪の士ならんとは、聞くも憐れの物語なり。また新子の語るを聞けば、村橋氏は鹿児島藩の士族にして、薩摩一百ニ郷の内、加治木領主の分家なり。維新前薩摩藩主が時勢の趣くところを看破し、藩士中最も俊秀の聞こえある少年十名を選抜して英京倫敦に留学せしむべしとして甲乙と詮索ありし時、村橋氏もその十指の中に数えられ、故の鮫島尚信、森有礼、吉田清成、今の松村淳蔵等の諸氏と串木野の湊より舟出して、八重の潮路を名誉と勇気に擁護せられ英国に渡航し、蛍雪苦学の結果も見えて前途極めて多望なりしが、留まること1年計りにして不幸にも他のニ三の学友と共に召還せられし後ちは、藩にありて文武を励み続けるが、幾くもなく戊辰の戦争となり、村橋は当時参謀長たる黒田清隆氏の手に属し、調所廣丈、安田定則両氏らと奥羽箱館に出軍し勇名を官賊の間に轟かし、殊に黒田氏に厚遇せられしが乱平いで後ち、特に軍功を賞せられ物を賜う等の事あり。黒田氏の開拓使長官となるに及んで調所廣丈、堀基、小牧昌業諸氏と肩を並べて奏任官たりしが、氏は其後何事に感じてや不図遁世の志を抱き、朋友親族の切に留むるをも聴かで官を捨てて飄然行脚の身となり、身のなる果てを朋友知己にも知らせたり。定めなきが浮き世の常とは云え、左りとは墓なき最期かなと揚升庵曰く、青史幾行名姓、北邙無数荒丘、前人田地後人収、説其龍争虎闘、観し来れば栄枯盛衰は夢のごとく功名富貴は幻に似たり。村橋氏の感する何の為めに感せしやは知らされとも、其の末路を見て轉た凄然たるものあり。
  また、10月20日、新聞「日本」投稿欄に、旧友の弔歌弔文が掲載されました。
  村橋久成氏を弔う  はかなしみ君もはかなくなりにけりはかなきものは扨もうき世か
路傍の斃死、君にありては九品の浄室に寂を遂げたりといはんか、隻岡の法師嘗て歌うを聞けば、ここもまた浮世なりけり。よそながら思ひしままの山水もかなと。扨は浮世ながらの浄境なきを観ぜしならん。さるとても当年十秀才の一人英京の留学生。

これらの新聞記事で、はじめて村橋の凄絶な死を知った旧友の開拓使元幹部たちは驚き、連絡を取り合います。旧友たちが新聞「日本」の「英士の末路」によってその死を知り、元開拓使官吏加納通広が、村橋の実子圭二(東京在住)を伴って神戸に出かけて遺骨を持ち帰り、10月23日青山墓地で黒田清隆ら参列のもとに、村橋久成の葬儀がとりおこなわれたのでした。その葬儀には、時の政財界の大物が参列、または香典を寄せています。(村橋久成のお墓を守ってこられた、実の孫・村橋御代氏(圭二の子)所蔵の「香典料人名帳」によって窺い知ることができます。)

=「夢のサムライ」より引用転載します=
伯爵黒田清隆・伯爵夫人黒田瀧子、日本郵船会社社長森岡昌純、北海道炭礦鉄道会社堀直樹、日本郵船会社神戸支店長前田清照、貴族院議員湯地定基、鹿児島県知事山内隄雲、北海道炭礦鉄道会社向井三七、外務大臣陸奥宗光、北海道炭礦鉄道会社社長堀基、通信大臣秘書官佐藤秀顕、兵庫県警務部長野間口兼一、元開拓使官吏加納通広、元開拓使工業局長長谷部辰連、帝室
博物館館長小牧昌業、鳥取県知事調所廣丈、通信次官鈴木大亮、屯田司令官永山武四郎、海軍大臣仁景範、北海道炭礦鉄道会社副社長園田実徳、枢密院顧問西徳二郎、広島県知事折田平内、愛知県知事時任為基、北海道炭礦鉄道会社副社長二木彦七、北海道炭礦鉄道会社検査薬金井信之、小樽警察署長森長保、札幌麦酒会社内藤兼備、蚕糸製造業足立民治、北海道果樹協会理事阿部隆明、元開拓使官吏上野正、元開拓使官吏根岸定静、屯田兵司令部家村住義、元開拓使官吏永田盛庸、元開拓使官吏桑山敏、
現在、村橋久成は、東京・青山霊園に眠っています。墓石には丸に十の字の島津家の家紋があり、「正七位村橋久成墓 鹿児島県士族 明治二十五年九月二十八日没 享年五十有三」
という文字が彫り込まれています。
  1982年(昭和57年)の田中和夫著「残響」で、村橋の業績が広く知られるところとなり、翌年には、鹿児島の芸術院会員中村晋也氏製作の胸像「残響」が完成しています。
2004年(平成16年)2月村橋久成胸像「残響」札幌建立期成会(会長木原直彦)が発足して、それを札幌の知事公館前庭に建立。2005年(平成17年)9月23日、高橋はるみ知事によって除幕されました。




村橋久成胸像「残響」(知事公館前庭・題字は書家中野北冥氏揮毫)

村橋久成胸像「残響」
村橋久成(1842~1892)は、鹿児島県(薩摩藩)の人、幕末にロンドン大学に留学し、
戊辰の役の箱館戦争では政府軍の軍監として活躍した。のち、開拓使に出仕して勧業事業を担当し、麦酒醸造所(サッポロビールの前身)をはじめ、琴似屯田兵村、七重勧業試験場、葡萄酒醸造所、製糸所、鶏卵孵化場、仮博物館、牧羊場、などを創設し、
北海道産業の礎となる。1882年に職を辞して行脚放浪の身となり神戸市外で没した。その偉業は、1982年刊行の田中和夫著「残響」で知られるところとなり、翌年には中村晋也日本芸術院会員が胸像「残響」を制作。2004年2月に期成会が発足し、多くの方の賛同を得てこの像の建立をみた。
2005年9月 村橋久成胸像「残響」札幌建立期成会
会長 木原 直彦



<主な参考文献及び参考資料>
□「残響」田中和夫著 北海道出版企画センター
  □「夢のサムライ―北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成」 西村英樹著 北海道出版企画センター  
□ 「札幌事始」 さっぽろ文庫7 札幌市教育委員会編  
□「人脈北海道・産業界編 サッポロビール」北海道新聞記事(昭和54,3,2夕刊)   
□ 「波乱の生涯―村橋久成 サッポロビール生みの親」 北海道新聞記事(昭和54,12,19夕刊)  
□「 村橋久成晩年の謎に迫る」 北海道新聞記事平成21、12,31)  
□ 「村橋久成胸像「残響」建立記念誌」 村橋久成胸像「残響」札幌建立期成会編 中西出版株式会社  
□ 「箱館戦争銘々伝」 好川之範 近江幸雄編 新人物往来社  
□「夜明けの雷鳴」 吉村 昭著 文春文庫   
□サッポロビール博物館資料<br>
□ その他、インターネット資料など 


ページのトップへ戻る 

 

前のページへ | 次のページへ


ホームへ