北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -15-

HOMAS <NO.60 2010,7,31発行>
ケプロンの通訳~開拓使判官 湯地定基の生涯と業績
-薩摩藩第二次米国留学生、そして黒田清隆のもと開拓使事業に尽力・根室県令ー


■まえがき
  北海道の近代化は、明治政府の開拓使設置(1869年<明治2年>7月)により本格的にスタートします。初代判官島義勇(1822-1874)、第2代判官岩村通俊(1840-1915)の先見の明、続く黒田清隆(1840-1900)開拓使次官(のち長官)の指導力と、黒田の招きのよる多くの米国の先進技術・教育の専門家たち、開拓使顧問のホーレス・ケプロン(1804-1885)、鉱山・地質測量のベンジャミン・S・ライマン(1835-1920)、農業牧畜のエドウィン・ダン(1858-1931)、高等教育のウィリアム・S・クラーク(1826-1886)、ウィリアム・ホィーラー(1851-1932)、デヴィド・P・ペンハロー(1854-1910)・・・などのすぐれた指導力により、各分野の開拓事業が進められたのでした。札幌農学校も、クラーク博士一行を迎えて1876年(明治9年)8月14日に開校しています。
  薩摩藩(現在の鹿児島県)は、明治維新と日本の近代化に有為の人材を多く輩出しています・・・・西郷隆盛、大久保利通。そして特に、蝦夷から北海道への転換期の北海道近代化の推進力となった開拓使(明治2年7月~明治15年)時代の指導者の多くは、薩摩藩の出身でした・・・黒田清隆、村橋久成、永山武四郎、時任為基、調所廣丈、湯地定基、岡田安賢、河島醇、山之内一次・・・。
  今回は、この北海道の開拓事業推進に大きな足跡をのこした一人、湯地定基(1843-1928)の生涯と業績をたどってみたいと思います。彼は、米国留学帰国後開拓使に出仕、ケプロンら外国人顧問の通訳を務め、その後、七重勧業試験場長、根室県令などを務めています。その間、漁業・農業の改善普及などに取り組み、特に馬鈴薯の栽培を勧めて、特産品にまで事業を発展させたので、芋判官・芋県令ともいわれて、その生涯を北海道の洋式農業普及をめざして誠実に歩んだ人といえます。

■湯地定基の生い立ちーアメリカ留学の薩摩藩士
  湯地定基(ゆちさだもと)は、1843年(天保14年) 9月4日、薩摩国鹿児島郡鹿児島泉町で、薩摩藩士湯地定之・貞の長男として出生。別名「治右衛門」。父定之は、進歩的な人で、長男・3男をアメリカに藩費留学させ、7人の子の末子「静子」(後に乃木希典夫人となり、大正元年9月13日、明治天皇<7月30日崩御>の御大葬の日に、希典夫妻殉死)も10歳で友人の開く塾に入れています。
1869年(明治2年)8月、24歳のとき、仁礼景範・江夏壮助・種子島敬輔・吉原重俊らと共に薩摩藩第二回留学生としてイギリスに渡り、1870年(明治3年)9月藩命によりアメリカに渡り、マサチューセッツ農科大学へ留学、クラーク博士(後の札幌農学校初代教頭)の薫陶を受けて農政学を学び、ます。ケプロンの記録によると、ニュージャージー州のブルンスウィック大学でも学んだようです。そして、翌1871年(明4年)12月27日帰国します。

■開拓使出仕―ケプロン一行の通訳として活躍
  1872年(明治5年)1月、湯地は、薩摩藩出身の尊敬する先輩黒田清隆開拓次官に招かれて、開拓使8等として出仕。開拓使顧問として来日していたホーレス・ケプロン(滞日:1871・明4年8月25日~1875・明8年5月23日)と同行のアンチセル、ワーフィルド、エルドリッジ一行の通訳の任に当たります。湯地は、以後3回に及ぶ、ケプロンの長期北海道出張すべてに通訳として随行したといわれます。ケプロンによると、湯地は口数の少ない、きわめて謹直な人柄であったようです。
  まず、1871年(明治4年)8月~10月、アンチセルとワーフィールドの開拓予備調査のため北海道巡検。一行は、函館から恵山岬をまわって、噴火湾を横切り室蘭に渡り、海岸沿いに勇払川、千歳方面を通って札幌着。札幌附近が全道の首府たるべき地点であることを確認します。約2ヶ月間馬に乗って巡視し、豊平川架橋(当時は明治4年4月の仮橋)の急務、製造工場や水車の設置場所の選定、札幌室蘭間の道路計画なども含めたものでした。
  ケプロン自身の第1回目の道内巡検は、1872年(明治5年)5月~10月。東京湾を出帆して、函館・室蘭を経て札幌に到着。札幌の「開拓使本庁舎」(~6年10月落成)の建築状況や製材場その他の諸工場の所在地(現在の大通り東1・2丁目附近全体の広い地域)を検分、さらに石狩・小樽を視察し、室蘭・函館を経て帰京しています。
  第2回目の道内巡検は、1873年(明治6年)6月~9月。黒田の指示を受けて、東京の開拓使官園の試験成果を移植するために設置する、七重・札幌官園・試験場の調査、その輸送方法に関する現地調査、牧畜・耕種の適地調査、鉱山開採方法に関する調査などでした。函館・七重官園・室蘭を経由して札幌着。札幌の農作・工場を検分後、ライマンを伴って豊平川・石狩川の調査、石狩・当別視察、小樽・余市を経て岩内の茅沼炭鉱を検分、長万部・函館を経て9月に帰京しています。
  第3回目の道内巡検は、1874年(明治7年)5月~8月。七重官園における果樹の点検と育成方法、室蘭に設置すべき木挽器械所の調査、新室蘭・札幌・小樽に予定している殖民(屯田)地の調査、札幌の種畜場・果樹・堤防の検分調査、ホロムイ・岩内石炭山の石炭採掘・運搬方法、その他鉱物の探査、浦河管内の牧畜・開墾の適地調査、漁業改良の方法調査など多岐にわたっています。函館・室蘭を経て6月札幌着。札幌近郊・小樽を調査。8月札幌発、勇払・浦河を経て、函館へ、そして8月末帰京しています。
  これらの長期にわたる北海道巡検、そして高く評価されている「ケプロン報文」等は、実は、通訳としての湯地定基の協力なくしては、決して結実しなかったものと思われます。湯地の果たした役割と功績はきわめて大きなものがあります。

■七重の官園―馬鈴薯の原種を移入して、はじめて栽培に成功
  ケプロンの帰国後、湯地は、1875年(明8年)2月、七重開墾場(現、七飯町)の経営にあたり、洋式農業の普及に努めます。1876年(明9年)7月、はじめて北海道においでになった明治天皇御巡幸の案内役も務めており、洋式農具の使用法をご覧にいれ、チーズやアイスクリームなどを差し上げたといわれます。その時に植えたアカマツ並木が、現在も国道5号線沿いに見ることができます。
  <なお、1941年(昭和16年)、照宮成子内親王殿下が、大沼にお成りになったのを記念して補植を行っています。七飯町開基100年(昭和52年)の調査によると、樹齢100年以上のもの808本、40年以上のもの345本、そのころ補植されたもの371本で、合計1,525本のアカマツ、クロマツが植えられていました。また、この松並木は1975年(昭和50年)、七飯町の町木に指定されています。>
  1877年(明10年)4月、札幌農学校の任期を終えたクラーク博士が、帰国を前にわざわざ七重に立ち寄ったのは、かつての教え子「湯地定基」を激励するためでした。湯地は、1878年(明11年)2月には牧場などの実際調査のため根室へ出張しています。同年7月には七重勧業試験場長になります。湯地は、米国マサチューセッツ州産のリンゴや芋(馬鈴薯)の原種を移入して、この寒冷の地ではじめて栽培に成功しています。後に、七重町が「男爵いも発祥の地」となる原点はここにあります。またこの間、アメリカ留学で体得した新知識により、農業畜産の改善、農産物の加工、水車整備、馬具・農具の製造を行い、多くの伝習生を育てています。その中には、アイヌの子弟もいました。1880年(明13年)には、札幌農学校1期生の小野兼基、柳本通義を招いて、育種や牧場経営を担当させて、みごとに試験場の成績をあげたといわれます。


函館市五稜郭公園裏の「男爵薯を讃ふ」碑

碑文 北海道帝国大学総長 伊藤誠哉書
(表)男爵薯を讃ふ 
(裏)男爵薯は明治四十年頃時も函館船渠会社社長男爵川田龍吉氏がアメリカ原産のアイリッシュコブラーを七飯村の農場に輸入したもので輸入者に因んで男爵薯と称したものである
この薯は極めて早熟な上に病害に強く本道の風土にも適するもので約四十年の間に全道に普及栽培されその声価は全国的に高まるに至った
このように本道農業経営とわが国食料対策の上に安定性を築いた功績は広く世に紹介されてよいと思ふ
ここに渡島管内に於けるこの薯の生産に係わる者が図って男爵薯保存協会を設立し事案の一としてこの碑を建てその由来を明らかにすると共に川田男爵の功績を讃え永く感謝の意を記念するものである
昭和二十二年五月建立 男爵薯保存協会
<昭和二十二年九月二十日除幕式 当時は五稜郭公園正面入口付近に建立>




■“根室のいも県令”―初代根室県令(知事)
  1882年(明15年)2月、開拓使が廃止となり、北海道に函館(県令時任為基)・札幌(県令調所広丈)・根室の三県が置かれた時、湯地は、根室県令(知事)を命ぜられ赴任します。当時の根室・北方領土の人びとは、食糧不足に悩まされていたので、漁業中心の経営はきびしいため、着任早々部下に命じて洋式農業の普及に力を入れます。しかし米麦はもちろん、野菜類も他所に求めなければならないほどの寒冷な地であり、食糧供給のための海路も不安定でした。前任地七重で、ジャガイモが寒冷な北海道によく適することを熟知していた湯地は、当時五升芋と呼ばれていたジャガイモの種をもって各戸を回り、農具を与えるなどして強制的に奨励したといわれます。人に会うと、口ぐせのようにジャガイモの栽培を勧める県令の熱心さに、しぶしぶ重い腰を上げて試作してみると、海霧の多い根室でも比較的収穫がよかったようです。冬季間の食糧事情の緩和に役だっただけでなく、その後根室地方の特産品にまで成長させたのでした。こうして、人びとは「五升芋」奨励に熱心な県令を「芋判官」と呼ぶようになります。
  湯地は、またコンブ・サケ・マス漁や魚かす製造の改善、千島北部の警備、アイヌ移住などにも尽力したので、こうした彼の功績を記念して、根室には、定基町(さだもとちょう)という地名が残っています。根室滞在は5年間。北海道で一番古い公共図書館の設置にも尽力しています。

■北海道庁勤務時代
  1886年(明19年)三県廃止。北海道庁の誕生により、湯地は、北海道庁理事官(副知事相当)に就任します。北海道庁は、新しい農村建設のための植民選定・区画事業推進の資料調査を必要として、翌年、初代北海道庁長官岩村通俊は、湯地定基に2ヵ年の欧米派遣を命じます。湯地は、小野兼基、堀宗一(クラーク博士の通訳堀基の弟)を随員として、1888年(明21年)1月出発、ベルリンを拠点に、ヨーロッパ各国の農村や植民政策・甜菜農業などを視察。次いでアメリカに渡り、特色ある植民地の区画や処分方法を調査、ジョンスホプキンス大学では農村発達史の講義も受けて、1889年(明22年)9月に帰国します。植民地選定事業は、湯地の調査報告や札幌農学校教授佐藤昌介らの献策受けて、内田瀞(きよし)らによって本格的な区画策定、移民導入がすすめられたといわれます。その最初が奈良県十津川の大洪水による樺戸郡新十津川集団入植でした。こうして、湯地によって路線が敷かれて、植民地開発が進められていきました。

■栗山で農場経営
  湯地は、1890年(明23年)、48歳で、元老院議官に転じ、次いで貴族院議員に勅撰されますが、北海道への思いは強く、1893年(明26年)、東京の所有地を売り払って、私費を投じて空知の栗山に280ヘクタールの貸下げを受けて、自宅を移して農場を経営、洋式機械を使って開墾をすすめ、開拓に成功しています。天照大神を祀る湯地神社を創建、地域住民の無事と繁栄を託しました。湯地は小作人たちに深い愛情を注ぎ、太平洋戦争後の農地解放まで農場経営を続けました。小作人36戸は、今も「湯地部落」として、豊かな農村となっています。

■晩年
  湯地は、晩年を東京で過ごし、1928年(昭和3年2月10日死去。享年84歳。8男2女があり、栗山町の農場は子孫が引き継ぎ、「種子用ホウレンソウ」の栽培で有名になったといわれています。

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&lt;主な参考文献及び参考資料><br>
「北海道の歴史」 榎本守恵著 北海道新聞社  □ 「星霜」2 北海道史 明治2(1875~1885) 北海道新聞社編  □「北海道歴史人物事典」北海道新聞社 編 □「静寂の声―乃木稀典夫妻の生涯」上・下 渡辺淳一著 文芸春秋社   □「北海道開拓功労者関係資料集録」(北海道) □ 「札幌事始」 さっぽろ文庫7 札幌市教育委員会編  □「開拓の群像」中 北海道 □「根室・千島歴史人名事典」 根室・千島歴史人名事典編集委員会 編  □ 七飯町 資料 □ 栗山町 資料 □ インターネット資料など<br>







北海道を知る歴史発見の旅シリーズ 2010、8,7実施 定山渓コース「資料集」より転載
-定山渓温泉の開祖- 知られざる 美泉 定山(1805~1877) の生涯


「美泉定山」(みいずみじょうざん)は、文化2年(1805)1月7日、備前国(岡山県)赤坂村周匝村黒本の池田藩主祈祷所の繁昌院妙音寺6代目宮崎行辨の次男として生まれる。幼名「常三」。幼くして仏門に入り、文政4年(1821)、17歳で、現在の倉敷市にある五流尊瀧院の道場に入山、滝に打たれ、断食の荒行に耐えて5年間の修行を積み、名を「常山」と改める。さらに、真言密教の奥義を極めるために、弘法大師の高野山できびしい修行を重ねて修験僧となった常山は、いよいよ霊山霊地を遍歴する諸国行脚の旅に出る。
  北へ北へと向かい、仙台にしばらく滞在の後、山形県の出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)に籠もり、続いて秋田太平山の前岳・中岳・奥岳の三峰を踏破した後、嘉永5年(1852)津軽の三厩にたどり着く。いよいよ蝦夷地に渡る決意を固め、ちょうど立ち寄った御用船に身を任せて竜飛岬を越え、嘉永6年(1853))、蝦夷地松前に渡る。このとき、年齢48歳。
  蝦夷地に渡った常山は、先ず、松前藩の祈祷所、海渡山阿吽寺に入る。しかし、松前にはあまり長くとどまっておらず、さらに蝦夷地巡錫の旅がはじまる。安政元年(1854)、久遠(今の大成町)の太田山大権現に籠もること5年、ここでは、名を「宗健」と改め別当(住職)を務め、「太田の法印さま」と村びとから崇拝されたといわれる。
  <蝦夷地探検の松浦武四郎が、安政3年(1856)、太田山で備前生まれの僧「宗健」と会い、新道開発について語り合ったという記述(「西蝦夷日誌」)がある。武四郎39歳。常山51歳。>
  文久元年(1861) 、常山は、さらに海岸沿いに北上して、船路で神威岬、積丹岬を回り、小樽内の張碓村にたどり着く。常山は、張碓村で、太田山時代の知人野村治兵衛のもとに腰を落ち着け、真摯に教化に努める。漁業円満・海上安全の祈祷に熱心で、その徳望は村内で評判となる。およそ5年滞在、アイヌの案内で温泉の出るところを探索して、「湯の澤鉱泉」を発見、葛山勇助や漁民の応援を得て、浴場を建て経営をはじめる。知人野村治兵衛ゆかりの女を迎えて共に鉱泉経営に当たり、また治兵衛の二女ツルを養女にする。常山は、歌・俳諧・絵画・彫刻にも秀でており、武道もたしなんでいて、その徳望はたちまち小樽内一帯の評判になったといわれる。
  その後、常山がアイヌの若者に教えられて、現在の定山渓温泉を発見したのは、慶応2年(1866)。この温泉に住んで、ここを永住の地と定める。61歳。この地「定山渓」に定住した最初の人といわれる。常山はこの地こそ、自分がほんとうに捜し求めていた地であるとして、背後の山を「常山」と名づけて道場とし、毎朝、山野をめぐって天地に祈り、温泉場の開発に努めた。明治3年(1870)開拓使初代判官島義勇に道路開削を懇請し着工の約束を得るも、島はわずか4ヶ月で解任。後任の岩村通俊は常山の案内で温泉場に赴き、その素晴らしさに感動して、明治4年(1871)常山を「湯守」に任命し、浴場・宿泊所を建て新しい橋を架けた。
  こうして常山は、扶持米(給料)を給される身分となり、初志がやっと実現する。常山は、これまでの苦難に満ちた巡錫の長い道のりを振り返り、現在の幸せな思いを橋に託して「回春橋」(現在の「月見橋」の前身)と名づけた。また、常山はこの年、平岸村開拓に入植した旧伊達藩士ゆかりのキンという41歳の女性を娶り、雇い人佐藤伊勢造夫婦と共に本格的に温泉場の経営にあたる。
この年明治4年(1871)10月、虻田―札幌間の本願寺道路が完成し、道路検分に来た東久世開拓使長官がこの温泉に立ち寄り、常山の温泉場開発の信念と熱意に心打たれ、常山の名をとって「この地を常山渓とせよ」と命じた。(これが後に、「定山渓」となる。)また後に、岩村通俊は、野生の鹿が傷を癒しに湯に浸かっていたことを常山から知らされ、この湯場を「鹿の湯」と名づけた。
  常山は、湯守として温泉場の経営を続けるが、生活はきびしく、明治6年(1873)夏の大洪水で、回春橋は流され、本願寺街道も損壊してしまう。明治7年(1874)7月には、後任の開拓使大判官松本十郎の財政引締め政策により湯守廃止となる。常山は、自力できびしい温泉経営の決意をする。(この時に、新たな姓名「美泉定山」を名乗る)
明治9年(1876)、定山は、温泉開発の一策として小樽―定山渓間の山道開削に努力するも、資金難のために断念している。
翌明治10年(1877)11月、定山は、妻に行き先も告げず突然行方不明になり、還ることはなかった。その最期は長く不明であったが、昭和54年(1979)秋、小樽の正法寺の過去帳に、「明治十年(一八七七)十一月四日死亡 美泉定山法印」という戒名の記録が見つかっている。72歳の生涯。これによると、定山は、行脚中に、突然心臓発作かなにかで倒れ、死後10数日を経て張碓の村人に発見されて、舟で正法寺に運ばれたたようで、孤独な死と考えられる。
  さて、定山の没後、未亡人キンは、明治13年(1880)温泉経営の一切を佐藤伊勢造に譲渡して、平岸村に帰り、養子を迎えて美泉家継承に努めたといわれる。

「美泉定山」を記念するもの
大正5年(1916)曹洞宗定山渓説教所が定山を開基として開山され、昭和18年(1943)移設建立。昭和21年(1946)12月、「定山寺」と寺号を改める。昭和3年(1928)定山50回忌に、「温泉開祖・美泉定山」の碑を建立。続いて昭和9年(1934)、前北大総長佐藤昌介の揮毫による定山の碑を定山寺境内に建立している。また、札幌出身の彫刻家木村恵保がが、定山坐像を制作して定山寺に寄進している。 
昭和25年(1950)には、定山渓神社(明治44年(1911)8月6日創立)に、祭神として合祀される。昭和41年(1966)3月、定山寺檀家総代(小須田多鶴代)が夫の一周忌に因み、「開祖美泉定山記念碑」を建立している。碑右横面に定山和尚の略歴、碑左横面には曹洞宗大徳山定山寺創立誌が刻まれている。
昭和62年(1987)、定山没後110年にあたり、定山渓温泉繁栄の礎を築いた偉業を讃えて定山渓ホテル前に「美泉定山銅像」が建てられる。また平成17年(2005)には、定山生誕100年を記念して「定山源泉公園」が造成されて「美泉定山坐像」が建立される。
                *
温泉の泉質・効能など  定山渓温泉は、豊平川の河流に沿って数十箇所の湧出口から自噴している。この温泉は、定山渓の背後に大きく広がる無意根山系の地下水が数十年の年月をかけて地下2,000mほどにあるマグマの熱により加熱されて、この地域の断層にそって噴出したものと考えられる。湯は無色透明(ナトリウム塩化物泉)70~90度で、一般的には「弱塩泉」と呼ばれる。神経痛、リューマチ、創傷に効能ありといわれる。

参考資料 □「定山渓温泉」さっぽろ文庫59 □ 「定山渓温泉のあゆみ」(定山渓観光協会)
定山渓郷土博物館資料 □「ほっかいどう百年物語」(STVラジオ編・中西出版)
□ 「南区開拓夜話」(札幌市南区30周年記念誌) □インターネット資料 など



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