HOMAS <NO63 2011,7,31 発行>
世界地図に「間宮海峡」の名を残した間宮林蔵の生涯と業績
-江戸時代後期に北蝦夷地探検達成、そして蝦夷地の詳細な測量地図を作成-
■まえがき
北海道庁「赤れんが庁舎」の2階に、「樺太関係資料館」という展示室があります。ここには、間宮林蔵のことが詳しく紹介されています。銅像もあります。<本稿2頁に説明・年表・銅像を転載>
今回は、この「間宮林蔵」(1780年・安永9年~1844年・天保15年)の探検と測量の生涯とその業績をたどってみたいと思います。その時代は、開拓使時代(1869~1882)より、さらに一世紀前です・・・
■時代背景
鎖国幕藩体制にとっては、ロシアのカムチャッカ半島・千島方面への進出やサハリンの南下政策は脅威でした。さらに江戸時代中期、多くの外国船が各地に寄港を求めてきます。1789年(寛政元年)6月、ロシア使節ラクスマン一行が、根室を経て箱館来航。1796年(寛政8年)9月、イギリス船プロビデンス号の内浦湾(室蘭)来航。この時、ブロートン船長が有珠山や駒ヶ岳などの火山群に驚き「ボルケイノーベイ(噴火湾)」と命名したといわれます。こうした度重なる外国船出没に対して幕府は緊張の度を強めて、北辺の警備を急ぎます。幕府は1798年(寛政10年)蝦夷地再調査の上、翌年、東蝦夷地を直轄。松前根室間の道路を整備し、択捉航路を開き、伊能忠敬の東蝦夷地海岸測量(のち間宮林蔵が西海岸を測量)、八王子千人同心子弟の屯田入植、場所請負制度の廃止と直捌き実施、有珠・様似・厚岸に官寺を創建するなどの対策を講じています。
ロシア使節レザノフが長崎に来航したのは、1804年(文化元年)ですが、幕府に国交を拒絶され、憤激のあまり部下にカラフト・利尻・択捉で暴行略奪を行わせています。報をうけた幕府は、1807年(文化4年)松前藩を奥州梁川に移封して、蝦夷地全島を直轄とし、北奥諸藩に蝦夷地を警備させます。
1811年(文化8年)、千島列島を南下したロシア軍艦ディアナ号のゴローニン艦長は国後島に上陸、警備の日本側に抑留されます。ディアナ号は翌年艦長救出に来航、択捉近海で高田屋嘉兵衛を捕らえます。高田の誠実な調停尽力で問題は無事解決し、日露間の緊張は緩和します。それで、幕府は1821年(文政4)蝦夷地を松前藩に返しますが、内外の平穏は長続きしません。国籍不明の外国船が厚岸・有珠などに来航、警備の藩兵と交戦し、津軽海峡にも外国船が出没し、幕府は松前藩に新たに築城を命じています。ペリー黒船来航の翌年、1854年(嘉永7年)日本は開国、箱館・下田の2港開港となり、幕府は蝦夷地の大部分を直轄し、箱館奉行を置きます。この時、日露間で、千島方面の国境は択捉島とウルップ島の間に決定しましたが、樺太方面は決まらず、課題として残りました。
■ 間宮林蔵の年譜・説明文・銅像 樺太関係資料館 <道庁赤れんが庁舎2階にあります>
1780年(安永 9年) 常陸国筑波郡上手柳(現つくば市)の農家に生まれる。父間宮庄兵衛・母(森田)クマ。
1799年(寛政11年) 20歳 村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る。
1803年(享和 3年) 24歳 蝦夷地御用雇に任ぜられる。
1808年(文化 5年) 29歳 カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り
カラフトの離島を確認。
1809年(文化 6年) 30歳 再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認。
6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府
の役人と会う。
1810年(文化 7 年) 31歳 村上貞助の協力で、「北蝦夷島地図」、「北蝦夷分界余話」、「東韃地方紀行」
を著す。
1814年(文化11年) 35歳 蝦夷地測量。
1822年(文政 5年 43歳 松前奉行廃止。江戸に帰り普請役となる。
1824年(文政 7年) 45歳 安房上総御前備掛手付となり,異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視。
1826年(文政 9年) 47歳 天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する。
1832年(天保3年) 53歳 シーボルト著「日本」で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される。
1842年(天保13年) 63歳 幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる。
1844年(天保15年) 65歳 2月26日江戸本所外手町の寓居に没する。
<参考文献「東韃紀行」間宮林蔵著 大谷恒彦訳「教育社」>
間宮林蔵と樺太
松前藩がクシュンコタン(楠渓)に穴陣屋を設けたのは1679年(延宝7年)のことですが、それ以降も樺太の実態を調査するとともに漁場の開発やアイヌらとの交易もするようになっていました。
しかし、その樺太にもロシアの進出が目立つようになりましたので、幕府は樺太を重要視するようになり、数名に樺太調査を命じていましたが、1808年(文化5年)間宮林蔵は松田伝十郎とともに樺太最北端まで踏破して樺太が離島であることを確認しました。
さらに翌年、間宮林蔵は単身樺太に渡り、北樺太のナニオーから海峡を渡り、黒竜江をさかのぼりデレンまで至りました。この時の記録は「東韃地方紀行」として刊行されましたが、後年シーボルトによって、この海峡は間宮の瀬戸としてヨーロッパに紹介され国際的に有名になりました。
樺太の歴史を語る上で忘れてはならない先駆者の一人です。
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■間宮林蔵の生い立ち
1780年(安永9年)常陸国筑波郡上平柳(現伊奈町上平柳)の農家に生まれます。名は倫宗(ともむね)、号は蕪崇(ぶすう)、林蔵は通称です。林蔵は父庄兵衛、母クマの一人っ子として両親の愛情を一身にうけて育ちます。林蔵の祖先は、戦国時代、小田原北条氏の家来である間宮豊前守康俊が、秀吉の小田原攻めに敗れてこの地に落ちのびた末裔と伝えられています。林蔵は幼少より才気煥発、算術の才があり、神童と呼ばれたといわれます。8歳ころから寺子屋に通い、13歳の時筑波山に登り立身出世を祈願したりしたといわれます。
1795年(寛政7年)16歳の時、小貝川の堰止め工事に加わり、出張中の幕府普請役・下条吉之助に地理や算術の才能を認められて江戸に修行に出ます。地理学者村上島之允(1760-1808)に師事して規矩術(三角測量)を学び、1799年(寛政11年)20歳の時、村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡ります。1800年(寛政2年)蝦夷地御用掛雇となり、函館にて伊能忠敬(1745-1818)に偶然会い師事、のち天測術(緯度測定法)を学びます。24歳以降、東蝦夷地・南千島の測量に従事し、26歳の時には、天文地理御用掛として、蝦夷地日高のシツナイに勤務しています。
■蝦夷地測量
1806年(文化3年)、エトロフ島シャナ会所に勤務し測量・新道開発に当たっていた時、幕府から通商の要求を断られたロシア使節レザノフの部下が復讐のため、軍艦によりシャナの会所襲撃した「シャナ事件」に遭遇します。会所は防戦に努めるも、すべてを放棄して敗走、責任者2名が自決。江戸に上り取調べを受けますが、林蔵は徹底交戦を主張したことが認められて咎めなしでした。
■北蝦夷地探検
1808年(文化5年)29歳の時、第1回樺太探検を命じられ、調役下役元締松田伝十郎(1769-1843)と共に樺太に渡ります。伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査して6月20日ラッカ岬に至り、宗谷に戻っています。林蔵は再度の探検を願い出て、7月第2回探検に出発して樺太で越年、1809年(文化6年)海峡最狭部を突破して、最北端ナニオーにまで達します。そして、「間宮海峡」をしっかりと確認したのでした。そこからアイヌ酋長の舟で大陸に渡り、黒竜江下流地方を探検、清国の仮役所デレンで清国役人と会見しています。こうして、当時の清、ロシア及び日本の勢力範囲を確認しました。1810年(文化7年)9月宗谷に帰着。村上貞助(1780-1846)と共に、「東韃地方紀行」「北夷分界豫餘話」を編集し、「北蝦夷島地図」を作成しています。
さて林蔵は、この樺太調査には決死の覚悟で出発しています。郷里に戻って墓を建て、再び故郷に生きてもどることは出来ないのではないかという思いがあったようです。
■蝦夷地の測量・詳細な地図の作成
1811年(文化8年)江戸に帰り、「東韃地方紀行」等報告書を幕府に提出。4月松前奉行支配調役下役格に昇進します。この間、伊能忠敬から緯度測定法を学びます。12月江戸を発ち蝦夷地に向かい、松前の獄舎に捕らえられていたロシア軍少佐ゴローニンの尋問を行っています。
その後一旦帰府、9月再び蝦夷地に下り、各地の測量を続けます。その後、父庄兵衛の死、伊能忠敬の死を弔うために、江戸に帰っています。
1912年(文化9年)、再度蝦夷地に渡り、3年がかりで、伊能忠敬の未測量地域の海岸や内陸部を歩き回って精密な測量を行っています。1821年(文政4年)完成の忠敬の『大日本沿岸輿地全図』には、この林蔵の測量が大きく生かされています。この測量の成果はさらに、今日の北海道地図の基礎となる「蝦夷図」の完成となります。林蔵の「蝦夷図」には主な集落の地名が驚くほど精密に細かく記入されています。これは、林蔵が何度も蝦夷地に渡り、約12年間かけて、全道の各市町村をくまなく歩き、正確な測量をした成果なのです。後に、北海道の名付け親として「松浦武四郎」が有名になりますが、この「間宮林蔵」の北海道の精密な測量と詳細な地図作成について、その功績がもっと高く評価されるべき人物であると思います。
■隠密活動
1822年(文政5年)江戸に帰り普請役、1824年(文政7年)安房上総御備場掛手付を命ぜられ、異国船渡来の内偵のため、東北地方の海岸を巡視します。8月母の死を弔い、以後、外国船渡来の風聞や密貿易調査などの隠密活動に従事します。
外国人との文通がご法度の時代、1828年(文政11年)、高橋景保経由で届いたシーボルトの林蔵あての小包を、開封せずにそのまま勘定奉行に報告提出します。このことが発端となって、幕府天文方高橋景保とシーボルトとの交流が明らかとなり、「シーボルト事件」が起こったといわれています。
[注]シーボルト(1796~1866)<ドイツ人医師・博物学者>は、長崎出島のオランダ商館付医師として1823年(文政6)来日<27歳>、内科や眼科の手術を行い、ヨーロッパの科学技術を伝える。長崎奉行の好意より出島を出て、郊外の鳴滝塾で西洋医学・蘭学を教えて多くの弟子を育てます。一方、日本に関するあらゆる分野の資料を収集したといわれます。
シーボルトが1826年(文政9)江戸参府の折、幕府天文方書物奉行の高橋景保(作左衛門)と親交を結び、シーボルトは景保に洋書を贈り、景保は見返りに御禁制の樺太・蝦夷・日本地図(伊能図)などを贈っていたことが発覚します。
高橋景保は伊能忠敬の「大日本沿岸輿地全図」を忠敬没後に完成させた 優れた学者ですが、捕らえられ獄死(45歳)。その遺体は塩漬け保存の後、斬首刑に処せられたといわれます。一方シーボルトは、1829年(文政12年)追放処分となりますが、帰国後、1832年(天保3年)、その著書「日本」の中で、間宮海峡(まみやのせと)の名を初めて世界に紹介したのでした。
■晩年
酷な人間として非難され、探検家としての名声を失ったといわれます。事件の翌年、幕府から隠密を命じられて長崎に下ります。2年後、隠密として石見国浜田で密貿易事件摘発の発端を掴みます。以後、林蔵は人生の後半を隠密として、諸国を巡り諜報活動をしています。1834年(天保5年)以降、水戸藩へも出入りして、海防問題などを献策したといわれます。
晩年は身体が衰弱し、隠密行動も不可能になったようです。1838年(天保9年)、59歳の時に、長年の激務が祟り病床につきはじめて、6年後の1844年(天保15年)2月26日、江戸本所外手町の自宅で病死します。65歳の波乱に満ちた生涯でした。1904年(明治37年)、正五位の贈位を受けたあと、1910年(明治43年)、志賀重昂らの仲介で「顕彰記念碑」が建てられています。
林蔵には実子がなかったので、分家筋の子孫が継いで現在に至っています。茨城県筑波郡伊奈町上平柳には、郷土の偉人を顕彰する「間宮林蔵記念館」が1993年(平成3年)6月3日{測量の日}に開館しています。また、1971年(昭和46年)に移築・復元された茅葺屋根の農家「生家」もあります。
林蔵のお墓は、郷里専称寺にあり、両親とともに眠っています。このお墓は、1807年(文化4年)樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立したお墓です。身分の低い武士にあった小さなお墓です。
お墓は、1955年(昭和30年)、茨城県の史跡に指定され、郷土の偉人「間宮林蔵」顕彰のため、子孫伊奈間宮家・専称寺の協力を得て、保存・公開されています。
■あとがきにかえてー北海道開拓の基礎を築いた探検家・測量家たち
江戸中期からのロシアの南下に備えるために、幕府は、蝦夷地探検隊を次々に送り込んでいます。
◇最上徳内(1755-1836)、出羽国(山形県)の農家の生まれ。蝦夷地・千島エトロフ探検の先駆者。
生来学問を好み、天明元年(1781年)江戸に出て幕府の医師の下僕となり本田利明に学ぶ。1785年(天明5年)幕府第1回蝦夷地探検に参加、翌年千島エトロフ探検4ヶ月に及ぶ。北辺の急を幕府に報告。1807年(文化4年)ロシア船来航、支配調役として北方警備のことを監察シ、またアイヌ交易の改善にも努力します。その後も蝦夷地調査を重ね、1798年(寛政10年)、東蝦夷地探検で近藤重蔵の配下として国後・択捉に渡ったのは、43歳、7度目の渡航でした。
蝦夷地に渡ること9回に及びました。この探検の成果として「蝦夷草紙」など多くの地誌や地図、アイヌ語事典などを著しています。蘭医シーボルトの信頼厚く、その著書「日本」により、最上徳内は「18世紀における最も卓越した探検家」として海外にも紹介されました。徳内は、江戸の下町でひっそりと81歳の生涯を終えています。
◇近藤重蔵(1771-1829)、江戸町方与力、将軍直参旗本の家柄に生まれる。国後・エトロフ探検。
幼時神童と謳われ、13歳にして背丈180㌢。湯島聖堂の学問吟味に合格、24歳で長崎奉行。27歳、1798年(寛政10年)、東蝦夷地探検で下野源助、案内役の最上徳内らと国後・択捉に渡り調査後、「大日本恵登呂府」の標柱を立てて、調査団4名とアイヌ民族協力者11名の名前を書き連ねたといわれます。帰途、蝦夷地道路開削の最初といわれる広尾の山道三里半を開削、「東蝦新道記」を残しています。
翌年、再び択捉調査にあたり、高田屋嘉兵衛に命じて航路調査をしています。以来5度にわたり蝦夷地探検を行っています。江戸の戻って、幕府の本府を構えるのは石狩川下流が良いと進言しています。これが、後に松浦武四郎らの提言もあって、札幌が首都となる発端になったとされています。
晩年は、55歳の時、長男の殺人八丈島送りの事件で、父親の重蔵も禁固刑の身となり座敷牢の生活となります。3年後、不遇のまま58歳の生涯を終えています。
◇伊能忠敬(1745-1818)、下総(現千葉県九十九里町)の生まれ。18歳の時、酒造家伊能家の婿養子となります。忠敬は倹約を徹底して約10年で家業を建て直し、1783年(天明3年)の大飢饉の時(38歳)、私財をなげうって地域の窮民を救済したといわれます。この功績が幕府に認められ苗字・帯刀を許されています。
50歳の時、資産を残して引退。「地球の大きさを知りたい」という好奇心から、本格的に測量・天文学を勉強するため江戸に出ます。当時浅草に星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったのでした。そこで、当時の天文学の第1人者、高橋至時(よしとき)の門下生となります。時に、至時32歳。忠敬51歳。猛勉強の末、忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本ではじめて金星の子午線経過を観測したといわれます。
その後、私費で全国各地の測量を行います。羅針で方位を調べ、歩数で距離を測定したのでした。幕府に願い出て、地図作成のため東日本全体の測量許可を得ます。1800年(寛政12年)55歳。江戸を出発。測量方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出して距離を計算する方法でした。昼は測量、夜は天体観測して誤差を修正するという努力を、3年間続けて、東日本の測量を終え江戸に戻ります。早速その結果を、師匠の至時と共に最新のオランダ天文学書と照らし合わせて、ほとんど誤差のない正確なものであることに感激したといわれます。しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳に無理を重ねて病に倒れ、翌年39歳で病死しています。
半年後、忠敬に、西日本地図作成の幕命が下ります。1805年(文化2年)60歳。再び江戸を出発。
今回はいわば国家的な事業として、100人規模の測量隊で本州・四国・九州へと測量を進めますが、体力が衰え始めた忠敬には過酷なものとなり、内陸部の調査、四国の測量に日数がかかり、九州の測量を終えて、江戸の戻ったのは、1815年(文化12年)2月19日。忠敬は70歳になっていました。
その後、実際の測量の数値の誤差を修正する計算に入ったとき、忠敬は肺病にかかっていて、そのまま回復することなく、1818年(文政元年)73歳で病没しています。しかし、高橋景保(至時の息子)や弟子たちは、忠敬の死を伏せて地図を完成させたのでした。
こうして、1821年(文政4年) 日本最初の実測地図「大日本沿海輿地全図」が江戸城大広間で公開されたのでした。大図214枚・中図8枚・小図3枚の途方もない規模のものでした。
後に、間宮林蔵の詳細な蝦夷地の探検測量により、補正完成した「大日本沿海輿地図」により、はじめて北海道の正確な形が明らかになります。
忠敬の遺言「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」という願い通り、現在も、上野の源空寺に師弟の墓石が並んでいます。
◇間宮林蔵(1780-1844)、1799年(寛政11年)4月、初めて蝦夷地を踏査、翌年蝦夷地御用掛雇となり、箱館で偶然、伊能忠敬に会い師事します。以後、12年間にわたり蝦夷地探検・測量をしています。
1808年(文化5年)~翌年、カラフト探検により離島確認。「間宮海峡」の名を残す。<詳細、本稿参照>
◇松浦武四郎(1818-1888)、伊勢国須川村(現三重県松坂市)の庄屋に生まれる。国内各地遍歴の後、蝦夷地探検をめざします。1845年(弘化2年)以来、探検家として3回、幕府・政府役人として3回、15年間にわたり蝦夷地を内陸部も含めて縦横に踏査して、多くの探検日誌・地図などの優れた著作を残しています。後に、開拓使役人となり、「北海道」の名付け親として有名になります。 <詳細は、「HOMAS」
56号 参照 >
■遠くを見つめる間宮林蔵・・・日本最北端 宗谷岬の銅像と説明板
間宮林蔵渡樺の地 (説明板)
時あたかも文化5年4月13日(1808)幕命により間宮林蔵は、松田伝十郎と共に此の地より北蝦夷地(カラフト)探検の途についた。
流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、風俗の異なる北蝦夷に渡り、特に東海岸を隈なく調べた。
この年彼は単身北上して黒竜江をさかのぼり、北蝦夷は大陸と海峡をへだてた完全な独立島であることを発見した。
林蔵の「東韃紀行」(とうたつきこう)は沿海州地方の世界最初の記録であり、後にシーボルトが「間宮の瀬戸」と名付けヨーロッパに発表してその功績をたたえた。
稚内市教育委員会
<主な参考文献及び参考資料>
□ 「北海道の歴史」 榎本守恵著 北海道新聞社 □「続々ほっかいどう百年物語」STVラジオ編 中西出版 □「間宮林蔵」吉村 昭著 講談社文庫 □「間宮林蔵・探検家一代ー‐海峡発見と北方民族」高橋大輔著 中公新書ラクレ □ 「樺太関係資料館」資料 道庁赤れんが庁舎 □インターネット資料など
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