HOMAS <NO63 2011,3,15 発行>
寒地稲作の祖~夢を追い続けた中山久蔵の生涯と業績
―耐寒品種「赤毛」栽培の成功から・・・今日の「きらら」「ゆめぴりか」 誕生への道ー
■まえがき
「豊葦原の瑞穂の国」(古事記)といわれる美しい稲穂が実る日本の「稲作」の歴史は古く、縄文時代の終りから弥生時代の初めにかけて、紀元前5世紀ごろ中国から伝来したといわれます。次第に本州北端まで到達し、そして日本の社会全体が稲作とともに歩み、「米」を主食とする食文化や風俗を培ってきました。米は、日本では主食として食べられる他に、酒や餅、味噌、醤油などの原料としても用いられてきました。
近世の日本では、太閤検地以後江戸時代を通じて、各藩の米の生産量(他の農産物・海産物も米の生産量に換算)で表す「石高制」を用いています。加賀百万石(120万石)とか薩摩七十二万石(90万石)・伊達六十二万石など゙・・・・また、大名をはじめとする武士の収入(禄高)を表す場合も石高を用い、これは、明治時代の地租改正まで続いています。しかし、蝦夷地は江戸時代には米の収穫はなく、松前藩は唯一「無高」の藩といわれました。そのため一万石以上を大名とする制度の例外として、特別に一万石格を与えられて諸侯に列しています。
この寒冷の蝦夷地の稲作は、道南各地で試作されていますが、渡島大野地方(現北斗市大野町)で、寛文年間(1661~1672)次いで貞享2年(1685)試作され・さらに元禄5年(1692)、野田作右衛門という人が、四百五十坪を開墾して稲作を試み米十俵を収穫したといわれます。これが北海道の稲作の起源として、大野町に残る「北海道水田発祥の地碑」に刻されています。<5頁 [資料]参照>
しかし、まだ定着はしなかったようです。寛政11年(1799)以降、幕府の蝦夷地直轄時代に、幕府の積極的な施策により、道南地方で次第に稲作が定着していったようです。
明治政府の開拓使設置(1869年<明治2年>7月)以後、札幌を中心として北海道の近代化が推進されていきます。初代判官島義勇(1822-1874)、第2代判官岩村通俊(1840-1915)の先見の明、続く黒田清隆(1840-1900)開拓使次官(のち長官)の指導力と、黒田の招きのよる多くの米国の先進技術・教育の専門家たち、開拓使顧問のホーレス・ケプロン(1804-1885)、鉱山・地質測量のベンジャミン・S・ライマン(1835-1920)、農業牧畜のエドウィン・ダン(1858-1931)、高等教育のウィリアム・S・クラーク(1826-1886)、ウィリアム・ホィーラー(1851-1932)、デヴィド・P・ペンハロー(1854-1910)・・・などのすぐれた指導力により、各分野の開拓事業が進められたのでした。札幌農学校も、クラーク博士一行を迎えて1876年(明治9年)8月14日に開校します。
この時代に、開拓使顧問ホーレス・ケプロンが指示したのは、寒冷地に稲作は不向きであり、アメリカ式の牧畜と畑作中心の混合農業の推進でした。
当初、開拓使はこの意見に従い、畑作・酪農中心の欧化政策を推進しますが、農家の米作りへの執着心は強く、各地で多くの寒地稲作の試作の努力がなされていきました。石狩地方では、古くは琴似の早山清太郎、篠路の森山兼光などの水稲試作があります。そのなかで苦労を重ねて、北海道での本格的な米作りの成功とその普及に大きく貢献した先駆者、「寒地稲作の祖」と称される中山久蔵(1828-1919)の功績はきわめて大きいものです。今回、ここにその生涯と業績をたどってみたいと思います。
■中山(松村)久蔵の生い立ち
中山(松村)久蔵(1828-1919)は、1828年(文政11年)3月21日。河内国石川郡春日村(現、大阪府南河内郡太子町春日)の農業を営む旧家松村三右衛門の次男として生まれています。幼少時より青雲の志強く、1845年(弘化2年)4月、17歳の時、父兄の許諾なしに故郷を飛び出して江戸に行ったようです。その後大阪と江戸の間を諸国放浪、1853年(嘉永6年)、25歳の時、仙台藩士片倉英馬の知遇を得て仕官します。
この時期、蝦夷地のロシアに対する防備は松前藩だけではなく、東北諸藩が分担させられています。仙台藩は、白老から襟裳岬を経て十勝・厚岸・根室、さらに国後・択捉までを割り当てられています。その拠点となったのが白老陣屋(要塞)でした。久蔵も片倉に従って1856年(安政三年)の陣屋設置以後明治維新までの12年間、この白老陣屋と仙台間を何度か往復していたようです。白老在勤は1年交替でした。久蔵は、白老では、漁に出たり、開墾・農作物の栽培などもしていたと思われます。
明治維新後、久蔵はしばらく静岡に滞在したようですが、42歳の厄年を機に、主家を辞して北海道移住を決意し、1869年(明治2年)12月、白老に渡りました。人づてに苫小牧に移り、土佐藩出身の平三郎を養子に迎えて開墾に着手します。しかし、苫小牧の火山灰の土壌が農地開墾に向かないと判断して、1871年(明治4年)単身島松に入植します。苫小牧からの途中、数株の山ユリを掘ってきて、島松に植えたのが翌年以降増え続けて数十万株にもなったそうで、久蔵はこの山ユリや雑穀栽培を自分の農業の第一歩として、島松で六千坪を開墾しています。この時期、姓を松村から中山に改めています。これは、黒田長官の助言を受けて、島松の山林の中で、ただ一人開墾に立ち向かう決意をこめて中山姓にしたといわれます。この久蔵の驚異的な働きは評判となり、1872年(明治5年)松本十郎判官が島松に立ち寄り、当時開拓者に与えられていた一人分の扶助を進めますが、自力で開墾したいとして、久蔵はこれを辞退しています。堅忍不抜、自助自立の精神―これが久蔵の強い信念でした。松本十郎判官は、その後もたびたび立ち寄っています。
1873年(明治6年)には、札幌~室蘭間の「札幌本道」が開通しています。この札幌本道開設のために、久蔵は自分の畑地800坪を寄付したようです。
また、久蔵は、後になって、1896年(明治29年)、第7師団独立歩兵第1大隊(後の歩兵二十五連隊)の創設にあたり島松演習場として、百万坪の土地も無償で寄付したといわれます。
■耐寒品種「赤毛」の栽培
久蔵は粗末な小屋に住み、寒さと飢えと孤独に耐えながら、寒地稲作に取り組む決意をます。入植3年目の1873年(明治6年)に、久蔵は渡島大野へ出かけて、寒さに強いという「赤毛」と「白髭」種の種籾を持ち帰って一反歩の水田耕作を試みます。しかし、5月に蒔いた籾がなかなか発芽せず、風呂の湯を沸かして昼夜苗代に流し入れて発芽させ、その後も島松川の水を「暖水路」を通して温めて水田に引くという粘り強い苦労の末、この秋始めて「赤毛」種で一反の水田から二石三斗の収穫を得たといわれます。これが北海道の米作りの夜明けとなりました。その後、久蔵が苦労を重ねて育てた「赤毛」種の種籾は、空知や上川の農家に無償で配布され、ここから全道に米作りが広がったのです。石狩平野の人々は、この品種を「赤毛」とは呼ばず、「中山種」と呼んで、久蔵の功績を称えたそうです。これがきっかけとなって、石狩平野の農家江藤庄三郎の「坊主」の発見、その小作人中田光治の努力により美唄一帯に作られるようになり、さらに上川盆地にまで広がり、「坊主2号」「坊主6号」などの優れた耐寒品種が生み出されていきます。1877年(明治10年)、久蔵はこの寒地稲作の成功を示すために、東京で開かれた第1回内国勧業博覧会に自ら作った米を出品し、内務卿大久保利通の表彰をうけています。1879年(明治12年)には、開拓使に米一石(150kg)を献上するまでの収穫を上げるようになり、開拓使長官黒田清隆もこれまでの功績を称えて、1882年(明治15年)には、農商務卿西郷従道からも表彰されることとなります。1889年(明治19年)、新しく設置された北海道庁の民間指導員になっています。久蔵は、収穫した種籾を開拓者に無償で配り、農村を訪ね歩いて稲作の指導にもあたったといわれます。
1892年(明治25年)、久蔵は養子の留蔵を広島村大曲に入地させて水田の経営をさせています。また、広島村下仁井別の草分けといわれる谷喜三郎は、久蔵の指導を受けて水稲作りにあたり、この地区の開拓に貢献しています。久蔵の水稲栽培に対する研究心は強く、1873年(明治6年)から1901年(明治34年)までの気候・発育・反収などの克明な記録も残しています。
1903年(明時36年には、明治天皇から緑綬褒章を受章しています。1910年(明治43年)以降、農業試験場での品種改良が行われ「富国」「石狩白毛」「新雪」などを生み出し稲作安定に寄与したといわれます。その後、一度に多くの籾まきが可能な「たこ足」という籾の直蒔機の使用・油紙を張った「温床苗代」などの技術的な面と品種改良の努力と工夫の末、広大な湿地帯や原野が豊かな水田へと変わっていきます。こうして、今日石狩平野を主産地とする北海道稲作は全国一の収穫量を誇る地域に発展していきます。
■島松駅逓
1877年(明時10年)4月16日、札幌農学校教頭ウィリアム・S・クラーク博士(1826-1886)が、在任約8ヶ月で札幌を去るにあたり、多くの学生や職員に送られて、この中山久蔵宅(駅逓)で食事の後、「Boys
be ambitious-少年よ大志を抱け」の言葉を残して、別れを告げて帰国の途についたというのは、有名な話です。<[資料]クラーク博士記念碑(昭和25年11月建立)の写真参照>
1881年(明治14年)9月、東北・北海道ご巡幸中の明治天皇は、この中山久蔵宅(駅逓)を御昼行在所として休憩されお食事をされています。54歳の久蔵が、7年間にわたって品種改良を重ねた「赤毛」の稲穂などをお見せしたのに対して、明治天皇から、労いのお言葉と金300円・御紋付き三つ組み銀杯を賜っています。中山久蔵が、正式に駅逓取扱を命ぜられたのは、1884年(明治17年)8月16日からです。1ヵ年百三十円給付されて、1897年(明治30年)に廃止されるまで、駅逓所の経営に当たっていたようです。<
現在、「旧島松駅逓所」は、国指定史跡として一般公開されています。>
■開拓への貢献
その後、久蔵は、地元の有力者となり、道路工事を監督したり、学校を建てるなど、公共事業にも力を尽くしたといわれます。また、久蔵は、早くから葡萄などの果樹栽培も始めており、1878年(明治11年)からの蓮根(蓮)の栽培、さらに桃の栽培など、どんどん新しいことにチャレンジしています。
<この蓮は、後に北海道庁の池にも植えられたということです。>
1882年(明治15年) 開拓使廃止、札幌・函館・根室の三県時代を経て、1886年(明治19年)北海道庁がスタートしますが、当初は庁内に米食禁止令が出され、稲作を試みた農民(屯田兵)が投獄されるということさえあったといわれますが、第4代北海道長官(1892-1896)北垣国道は、1892年(明治25年)、東京農科大学教授酒匂常明を北海道財務長官として迎えて、翌年から「稲作試験場」を上白石・真駒内に開設して、寒地稲作の推進を決めています。この稲作奨励策は、これまで他県に頼ってきた北海道の食料(米)自給率を高めることが急務であったのでした。これまでは、欧米式の畑作畜産を中心とした農業政策が一般的でしたが、中山久蔵の稲作の成功と道内各地への普及の実績への高い評価から各地への稲作奨励が推進されたのです。久蔵も、この後ろ盾を得て、どこへでも出かけて稲作栽培のコツを話して回り、惜しげもなく種籾を送り続けたということです。
後に、久蔵は、道庁の委嘱を受けて、北海道最初の農業普及員として、各地を回り稲作の指導に当たっています。1917年(大正6年)には、農学博士南鷹次郎を発起人として、「中山久蔵翁頌徳碑」が、島松に建てられています。
■晩年
久蔵は、北海道の稲作に成功してから、郷里河内国石川郡春日村(現大阪府南河内郡太子町)の菩提寺「光福寺」に、石段・石畳やお米一石を寄進しています。
北海道開拓期に大きな役割を果たした久蔵は、その後も、農業一筋の生活を貫いて、1919年(大正8年)2月13日、島松の地で亡くなりました。91歳でした。お墓は、北広島市上仁別にあります。郷里大阪の菩提寺「光福寺」の過去帳には「耕種院亀岳鑑翁居士」の戒名が残っています。
現在、奇しくも、島松の国指定史跡、旧島松駅逓所の横には、「寒地稲作この地に始まる」の中山久蔵の記念碑と「Boys be ambitious」のクラーク博士の記念碑が並んでいます。
久蔵の家族についてあまり触れていませんが、後年妻トサとの間に一子要助がありましたが、東京の大学を出てサラリーマンになります。要助の一女ヒサを養女として島松に迎えます。このヒサが婿蒸次郎を迎えて中山家を継ぎます。その後、四代目久次、五代目徹と受け継がれています。そして、現在、北海道を拠点に活動しているアイドル歌手中山怜香さんは、六代目の孫にあたります。
■あとがき
1961年(昭和36年)、北海道産米の収穫量(85万4500㌧)は、新潟県を抜いて全国一位となり、1967年(昭和42年)には、大豊作で道産米収穫量100万㌧を突破したといわれます。しかしその後、政府の減反政策(生産調整)の強化・政府買入価格の銘柄格差導入などにより、最低ランク道産米の低迷が続きます。
1980年(昭和55年)からの、道のプロジェクト「優良米の早期開発試験」に始まる、各地農業試験場のたゆまぬ品種改良の努力により、美味しい「ゆきひかり」(‘84・昭59)、「きらら397」(‘88・昭63)が誕生し、「きらら」は、全国的に脚光を浴び、ブームとなります。その後、「ほしのゆめ」「ななつぼし」「ふっくりんこ」「おぼろづき」「ゆめぴりか」など、次々と全国ブランドの美味しいお米が誕生しています。
大陸から日本に伝播した稲作は弥生時代中期までには本州最北端まで達していたといわれますが、津軽海峡を渡るまでには非常に長い年月がかかっています。道内で始めて稲作が試みられたのは、江戸時代初期で、道南の一部(現在の北斗市)に限られていたようです。しばらく試行錯誤が続きますが、収穫は安定しませんでした。明治初期、開拓使が米国から招いたホーレス・ケプロンは札幌以北での稲作は不可能と断定、畑作を勧めます。開拓使もいったんは稲作を断念したのでした。
しかし、本州からの開拓移民たちの稲作への熱意には強いものがありました。1873年(明治6年)、島松(現在の北広島市)に入植した中山久蔵が、耐寒性の強い「赤毛」という品種を使って、風呂の温水を苗代に注ぐなどの工夫と苦労を重ねて、道央で初めてその収穫に成功し、そして、道内各地への稲作の普及に情熱を注ぎました。これが、今日の北海道稲作の原点となりました。「中山久蔵」をここに特筆する所以です。
[ 資料 ] 北海道水田発祥の地碑は、北海道各地に、その土地の稲作発祥を記念するものとして建てられていますが、ここには本稿に関係の深いもののみを、以下にご紹介しておきます。
(1)「北海道水田発祥之地」碑(現在の北斗市大野町文月)
(碑文)水田発祥由来
亀田郡大野村字文月押上のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って
人々の定着は米にあるとして地を拓し自然水により四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した爾来消長あったが後「御上田」と称して現在に及んでいる先人未踏の北辺に今日道産米三百万石の基礎はこうして発祥したものである 渡島支庁長 岡 武夫書
昭和二十四年八月建之
(説明版) 北海道水田発祥の地碑
蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661~72)、貞享二年(1685)、元禄五年(1692)の記録がある。水田発祥の地碑は、元禄五年の「松島志」の記録と村民の伝承によって昭和二十四年(1949)に建てられた。
碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約15アール)を開田し、道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
作右衛門の水田は二、三年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化二年(1805)には箱館奉行所が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
嘉永三年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣の村々にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治六年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒地稲作に成功し、米造りは全道各地に広がったのである。 平成十八年三月吉日
北斗市教育委員会
(2)「寒地稲作記念碑」(左)とクラーク博士記念碑」(右)(北広島市 旧島松駅逓所 )
(碑オモテ) 寒地稲作
この地に
始まる
北海道知事 町村金五 (揮毫)
(碑ウラ)碑文
ここは 明治六年 大阪府出身の中山久蔵が最初に米作を試みたところとして 永く記憶さるべき地である
当時道南地方を除いては 北海道の米作は危険視され 万全の開拓方針をたてることができなかったが 明治四年 単身率先してこの地に入地し開墾に従事した久蔵は あえてまずここに水田一反歩を開き 種子を亀田郡大野村から求めてこれを試み成功し その安全さを証明したばかりではなく その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた ために付近の水田耕作熱は とみに高まり 空知 上川の穀倉を拓く基を開き ついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである。
昭和三十九年九月
北海道大学教授農学博士 高倉新一郎 撰文
鈴木 凌雲 書
建立者 中山久蔵翁記念碑設立協賛会
広島村
<主な参考文献及び参考資料>
□ 「北海道の歴史」 榎本守恵著 北海道新聞社 □ 「星霜」2 北海道史 明治2(1875~1885) 北海道新聞社編 □「北海道の歴史」田端宏・桑原真人・船津功・関口明共著 山川出版社 □ 「北国に光を掲げた人々(19)―北海道の寒地稲作に挑んだ人・北広島市島松の中山久蔵」堀内興一著 (財)北海道科学文化協会 □「北海道の夜明け―開拓につくした人びと」第二巻 北海道総務部文書課編集 理論社刊 □「日本の農業につくした人々」さえら伝記ライブラリー29 筑波常治著 さえら書房 □ 「開拓使時代」 さっぽろ文庫 札幌市教育委員会編 □「広島町の歩み」現北広島市資料 □「北海道水田発祥の地記念碑」佐々木 多喜雄 著 北海道出版企画センター □ インターネット資料、他
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