HOMAS (NO.67)2012.12. 10発行
北海道農業・酪農の基礎を築いた先駆者たちの足跡とその業績
-大友亀太郎、エドウィン・ダン、町村金弥、宇都宮仙太郎、町村敬貴、黒澤酉蔵-
<「HOMAS」66号の続きとして、町村敬貴・黒沢酉蔵を中心に、記述していきたいと思います。>
■ まえがき(前号と一部重複)
広大な緑の牧場が広がっていて、そこに牛や馬が放牧されている・・・これが、北海道の原風景のようなイメージの感がありますが、本稿はまず,その前史ともいうべき幕末、明治の開拓使時代(1869~1882)の農業、牧畜・酪農の歴史をたどることから始めたいと思います。
北海道が「酪農王国」に至るには、まず、1876年(明治9年)、エドウィン・ダン(1848~1931)が、開拓使の招聘により来道して、札幌の原始林を切り開いて「真駒内牧牛場」建設に着手したことからはじまります。さらに開拓使廃止(1882・明治15年1月)後、町村金弥(1859~1944)がその運営を受け継ぎます。その長男町村敬貴(ひろたか)(1882~1969)を米国留学させます。敬貴は、きびしい酪農実習をして帰国した後、本格的な酪農経営に取り組みます。
時代が少し前後しますが、苦労を重ねて酪農業を立ち上げた宇都宮仙太郎(1866~1940)や黒沢酉蔵(1885~1982)らの努力があって、後の雪印乳業設立の重要な役割をはたすことになります。黒沢は、1933年(昭和8年)、江別に「酪農義塾」(現在の酪農学園大学)を設立しています。
以下、前号の続きとして、今回は、町村敬貴、黒沢酉蔵の苦労とその業績にスポットをあてて検証してみたいと思います。(「HOMAS」66号の続きです。)
■ 町村敬貴
町村敬貴(ひろたか)(1882-1969)は、金弥の長男として、1882年(明15)12月20日、エドウィン・ダンが開設した真駒内牧牛場の官舎で生まれ、牛を愛する少年として幼少時代を過ごします。札幌農学校農芸伝習科入学時、アメリカ帰りの宇都宮仙太郎の牧場で、朝夕の乳絞りの実習をし、卒業後、1906年(明39)、両親と仙太郎に見送られて渡米します。米国に渡り苦労の末、仙太郎の世話により、ウイスコンシン州ラスト兄弟牧場で酪農実習、その間、かつて仙太郎も学んだ州立農科大学ショートコース(11月~3月・2年間)に学び、卒業します。このラスト兄弟牧場には、塩野谷平蔵(後、北海道酪農共同会社副会長)や宮脇富(後北大を経て帯広畜産大初代学長)も働いていたといわれます。敬貴は10年間に及ぶアメリカ酪農技術実習を体得して、1916年(大5)10月帰国します。
翌年父の援助を受けて、石狩市樽川に入植し「町村農場」を創設しました。この泥炭地の原野で、「土づくり・草づくり・牛づくり」の苦節10年の苦しい努力が続きます。親のすすめで結婚した妻志津と小作人数人ではじめたのでした。この間2度、種牛購入のため渡米し、ホルスタインの乳牛も20頭ほどになり、バターの製造もするようになります。
1927(昭2)に、江別対雁(ついしかり)に移転しますが、ここは排水の悪い酸性土のため苦労を重ねて、暗渠排水・石灰撒布など総合的科学的な土地改良の実践による酪農経営努力で、酪農王国北海道の基盤を確立したといわれます。1940年(昭15)には、北海道土地改良功労者として、北海道長官表彰を受けています。
種牛購入や農業機械化状況視察・農業機械導入のため、数度渡米しています。その輸入は前後6回に及び、種牡牛8頭、種牝牛30頭に及びホルスタイン種乳牛の改良に努め、その乳量品質の向上に大きく貢献しています。1941年(昭16年)「北海道興農公社」を設立、乳製品の統合、農機具・農業用石灰・排水用土管など一連の土地改良事業などの業界が一本化します。その後いろいろな委員の委嘱を受けますが、1944年(昭19)北海道種牛協会(後のホルスタイン協会)会長に就任。1945年(昭20)貴族院議員勅撰、翌々年参議院議員当選。1961年(昭36)江別市功労者表彰。1964年(昭39)勲三等旭日中綬章を賜る。敬貴は、昭和44年(1969)8月没、86歳の生涯でした。日本近代酪農のパイオニアとして北海道酪農葬・江別市葬が執り行われ、死後第1回北海道開発功労賞を授与され、また正四位勲二等瑞宝章を授賞しています。(
なお、元北海道知事町村金五氏は実弟、現衆議院議員町村信孝氏は甥にあたります。)
江別市対雁(現いずみ野) 旧町村農場(現在資料館)
江別市篠津183 現在の「まちむら農場」
■ 黒澤酉蔵
黒沢酉蔵(1885-1982)は、1885年(明18)3月、茨城県の貧乏農家4人兄弟の長男として生まれ、尋常小学校(4年制)卒業後、隣人に漢学の手ほどきを受け、また漢学塾へも通います。いろいろな仕事をしてお金を貯めて、1899年(明32)14歳の時、東京に出て、神田数学院に住込み、独学で勉学に励みます。1901年(明34)
12月10日、足尾銅山鉱毒事件で渡良瀬川に流れ込んだ鉱毒に苦しむ農民救済を訴えて明治天皇に直訴した代議士田中正造の正義感に打たれ、酉蔵は新橋の「越中屋」に田中を訪ねます。事件の真相や経緯を理路整然と聞かされ、その正義感と人間愛の尊さ・崇高な人格に打たれ、自分の一生を支配してしまう出会いになったと後年述懐しています。黒沢少年は同士5,000人を集めて学生運動を起こします。過激思想の持ち主として警察に逮捕され前橋刑務所に6ヶ月収監されます。この間、鉱毒地救済婦人会・婦人矯風会潮田千勢子さんの聖書差し入れが、後にキリスト教に帰依するきっかけになったといわれます。田中の尽力や今村力三郎弁護士の努力により半年後にやっと無罪釈放となりますが、心配した田中が、「黒沢君は将来のために、正式に学校に入って勉強しなさい」といって月々10円の学費を送ってくれることになりました。1903年(明36)その援助金で、正式に東京の京北中学(現京北高校)に学びます。田中への深い感謝・早く恩返しをしたい気持ちと酒飲みの父に代わって苦労して家計をささえた母の死により、心気一転北海道へ渡る決意をします。
1905年(明38)8月1日、黒沢酉蔵20歳は、田中正造の紹介状を手に、北海タイムス社長の阿部宇之八(後の札幌区長(市長)を尋ねます。そこで、白石村で牛を飼っている宇都宮仙太郎を紹介されて、宇都宮牧場を訪ね、牧夫としての第一歩を踏み出します。酉蔵は、仙太郎の説く“酪農三徳”「牛飼いには三徳がある。第一に役人に頭を下げなくてもよい。第二に牛には嘘をつかなくてもよい。第三には牛乳が飲める。牛乳は人を健康にする。」という言葉に心酔したといわれます。牧場の朝は早く、午前4時には牛舎の仕事が始まり、牛舎の掃除・牛の餌・搾乳・牛乳配達・放牧・畑仕事などを午前午後と繰り返し夜の10時まで働き通しという忙しい毎日であったといわれます。1906年(明39)12月応召、月寒25連隊。模範兵となり2年で除隊。1908年(明42)札幌メソジスト教会で洗礼。教会で山鼻のリンゴ園主佐藤善七(佐藤貢の父)と知り合い、その紹介で酪農自営の第1歩を踏み出すことになります。
1909年(明42)、牧夫として働き始めて4年の春、酉蔵は軍隊で貯めた24円を元手に、中央区山鼻東屯田村に5反歩の土地と牛1頭を借りて、牛乳販売を開始、「黒沢牧場」を興したのです。翌年には、郷里から弟妹等を引き取っています。苦労の末、5年後には、ようやく自分のサイロを持ち、自分の家と17、8頭の牛舎を建てるまでになります。酉蔵は、酪農後継者には、いつも「家の者よりも必ず1時間早く起きて働け」と教えたといわれます。こうして酉蔵は、札幌を代表する酪農家の1人になっていきました。1915年(大4)に建てた家は1969年(昭44)まで住んでいました。
大正時代に入って、北海道農業は、開墾地の無肥料連作を長年続けたために地力が落ちてきたことが問題となっていました。官民あわせて、地力回復のため北欧有畜農業の検討をはじめ、宇都宮仙太郎・黒沢酉蔵らの進言もあり、「北海道第2期拓殖計画」として、道庁はデンマーク農家2戸・ドイツ農家2戸を5ヵ年契約で招聘します。デンマークのモーテン・ラーセン、エミール・フェンガー(札幌地区)とドイツのフリードリッヒ・コッホ、ウィルヘルム・グラバウ(十勝地区)の4家族が招かれたのでした。<これについては、「HOMAS」54号に詳述>
*北海道農業は、新しい肥沃な原野の開墾地での、無肥料連作を長年続けたために、大正時代に入って次第に地力が落ちてきます。大正6年(1917)、道庁農政担当者と札幌酪農組合畜牛研究会とが中心になって地力回復のための有畜農業の検討をはじめ、「北海道第2期拓殖計画」として、北欧の有畜農法を北海道農業経営の参考として取り入れることになります。米国留学の酪農家の宇都宮仙太郎(1866~1940)、黒澤酉蔵(1885~1982、酪農学園大学・現とわの森三愛高校の創立者)らの進言もあり、北海道庁(第16代長官、宮尾舜治)も、主穀農業から主畜農業に転じたデンマークの大成功に注目します。
大正11年(1922)から長期派遣で、道庁担当職員の山田勝伴・相原金治・神田不二夫と音江(現深川市)酪農組合長深沢吉平の4名の産業調査員がデンマークに派遣されていた間に,デンマーク模範農家招聘という道の方針が出て、その人選が進められることになりました。大正12年(1923)、北海道庁は、デンマーク人農家2戸、ドイツ人農家2戸を5ヵ年契約で招聘し、札幌近郊と十勝地区で模範経営を行わせることとしました。デンマークでは165名の応募者、ドイツでは8名の候補者の中から、4戸を決定。十五町歩農家としてデンマークのモーテン・ラーセン(1890~)<33歳・4人家族>と助手スヨンナゴー(1900-1963)(札幌真駒内種畜場内耕地)。五町歩農家としてエミール・フェンガー(1902~)<31歳・4人家族>(札幌琴似村農事試験場内耕地を招きます。また十町歩農家としては、ドイツのフリードリッヒ・コッホ<43歳・6人家族>(十勝清水)とウイルヘルム・グラバウ<30歳・4人家族>(帯広)の4家族が招かれています。
これにより、北方農業のあり方、とりわけ酪農振興への機運が高まりました。酉蔵は、「家畜の糞尿は農家の銀行である」というのが持論でした。1925年(大14)5月、「北海道製酪販売組合」を設立します。牛乳販売だけでなく、生産・加工・流通までを一貫して行い、その利益を酪農民に配分するという発想でした。組合長宇都宮仙太郎、国産バター製造技師はアメリカ留学帰りの佐藤貢、販売担当専務は黒沢酉蔵でした。東京をはじめ、各地を回っても、ブランドがないため苦労が続きました。
1926年(大15)秋、JR苗穂駅近くに最新式の装置を導入して新工場を竣工。品質も飛躍的に向上、チーズ製造も開始します。そしてこの年の暮れ、雪の結晶の中に北斗星が輝く「雪印」のマークを制定しています。
1933年(昭8)、次代を担う若者に酪農業を学ばせるために、江別に「酪農義塾」(後の酪農学園) を設立します。酉蔵は塾長となり、建学の精神として「健土健民」の重要性を唱えました。これは、「日本の国土を肥沃にすることで、国民の体も心も穏やかになっていく。それが酪農の基本である」という田中正造の農業中心の思想から生れたものといわれます。
1942年(昭17)、江別市文京台の広い土地を得て、「野幌機農学校」設立します。「機を知るは農の始めにして終りなり」(一九六二、一〇 黒澤酉蔵書)の銅版が校舎にはめこまれています。
「北海道酪農義塾」(昭和8年 開塾当時)
「野幌機農学校」(昭和17年開校当時)
そして、1958年(昭33)、デンマークののグルンドビー牧師の「愛神愛人愛土」(神を愛し、人を愛し、土を愛す)という「三愛精神」を建学の精神として「三愛女子高等学校(現とわの森三愛高校)を設立。
さらに、1960年(昭35)「酪農学園」(現酪農学園大学)を設立したのでした。
酉蔵は、酪農振興は「先づ教育から」との卓見に基づき、範をデンマークに求め、 酪農義塾を母体として、機農高校・酪農学園を設立したのでした。
こうして、わが国におけるユニークな 酪農専門の学園として大きく発展させたのでした。また、酉蔵は、育英資金にも惜しみなく私財を注ぎ込んでいます。
1962年(昭和37年)
校舎にはめこまれた銅版
1930年(昭15)宇都宮仙太郎没後、第2代組合長に就任、事業を全国ブランドにし、規模を拡大して海外にも輸出します。(1950年・昭25、社名を「雪印乳業株式会社」と改めます。)
その後、1940年(昭15)「北海道興農公社」の初代会長、次いで、㈱雪印乳業相談役、北海タイムス社長などを務めています。北海道議会議員・衆議院議員を歴任、北海道開発審議会会長を1954年(昭29)から16年間務めています。1969年(昭39)勲3等旭日中綬章、1970年(昭45)勲2等旭日重光章、1981年(昭56)勲1等瑞宝章を授章しています。酉蔵は、北海道酪農の振興に生涯を捧げて、 1982年(昭57)2月7日、96歳で永眠しました。
★ 日本ホルスタインの父 町村敬貴(1882-1969)を記念するもの
① 旧町村農場(江別市対雁・現在江別市いずみ野25)
町村農場は、1917年(大6)石狩樽川で創業。1928年(昭3)江別対雁へ移転しています。ここに北海道酪農先駆者町村敬貴氏の町村農場の建物を移築。昭和初期のキング式牛舎・サイロなど、当時の酪農に関する資料や農機具などを展示しています。1996年(平成8)から、資料館として無料公開されています。
町村敬貴像は、1973年10月(昭和48年),町村敬貴記念事業の会(会長佐藤貢)から産業共進会場(豊平区月寒東3-11)に寄付、敷地内に設置され、1996年(平成8年)旧町村農場に移設。(銅像制作者は、「エドウィン・ダン像」と同じ
峯 孝
② 現在の町村農場( 江別市篠津183 )
現在の町村牧場は、農場165ヘクタール。乳牛約380頭を飼育して、牛乳バター・チーズ等の乳製品を生産しています。
★ 北海道酪農の父 黒沢酉蔵(1885-1982)を記念するもの
① 黒澤記念講堂 ( 酪農学園大学構内・江別市文京台緑町582-1 )
1984年(昭和59年)12月、酪農学園創立50周年記念事業として建設。
講堂入口のロビーに、多くの資料写真などが展示されています。
② 黒澤酉蔵77歳の時、1962年(昭和37年)10月、酪農学園創立30周年記念事
業として、「黒澤酉蔵寿像」が建立されました。現在は、講堂前にあります。
( 銅像制作者は、旭川出身の加藤顕清) *寿像(じゅぞう)とは,その人の存命中に作っておく肖像彫刻(statue of a living
person )
③ その他、「酪農学園史」(1980・昭和55年9月)、「酪農学園創立五十周年記念誌」(1983・昭和58年10月)の写真ページが、貴重な資料として参考になります。
■ あとがき
現在、札幌のスーパーマーケトには、広大な北海道各地の酪農の現状を示す、多くの種類の牛乳が並んでいます。「雪印メグミルク」「サツラク牛乳」「倉島牧場牛乳」「豊富牛乳」「よつ葉十勝牛乳」「森永牛乳まきばの空」「明治おいしい牛乳」「函館牛乳」「登別牛乳」「町村農場特選牛乳」などなど。
(執筆担当:中垣 正史)
<主な参考文献及び参考資料>
□「北海道酪農百年史―足跡と現状及び人物誌―」木村勝太郎著 樹村房1985 □ 「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版 □ 「札幌百年の人びと」札幌市史編さん委員会編 札幌市発行 □ 「ひらけゆく大地(下) 開拓につくしたひとびと」 第四巻 北海道総務部文書課編集 理論社刊 □「のびゆく北海道(下) 開拓につくしたひとびと」6 北海道総務部文書課編集 北海道発行 □「北海道牛づくり百二十五年―町村敬貴と町村牧場―」蝦名賢造著 ㈱西田書店 □ 「私の履歴書-21--町村敬貴」 日本経済新聞社編集・発行 □ 「町村敬貴伝」蝦名賢造著 町村敬貴記念事業の会発行 □「宇都宮仙太郎」黒沢酉蔵著 酪農学園出版部発行 □「牛飼いからの伝言―黒沢酉蔵の生涯」仙北富志和著(非売品) □「酪農学園史」学校法人 酪農学園発行 □ 各地の現地リサーチ資料 □ インターネット資料など
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