北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -21-

HOMAS (NO.67)2012.12. 10発行
北海道農業・酪農の基礎を築いた先駆者たちの足跡とその業績
-大友亀太郎、エドウィン・ダン、町村金弥、宇都宮仙太郎、町村敬貴、黒澤酉蔵-

 <原稿が長くなりましたので、2回に分けて掲載します。 町村敬貴・黒沢酉蔵については、「HOMAS」67号に掲載します。>

■ まえがき
  広大な緑の牧場が広がっていて、そこに牛や馬が放牧されている・・・これが、北海道の原風景のようなイメージの感があります。しかし、北海道が「酪農王国」に至るまでには、まず、1876年(明治9年)、エドウィン・ダン(1848~1931)が、開拓使の招聘により来道して、札幌の原始林を切り開いて「真駒内牧牛場」建設に着手したことにはじまります。そして開拓使廃止(1882・明治15年1月)後、町村金弥(1859~1944)がその運営を受け継ぎます。その長男町村敬貴(ひろたか)(1882~1969)が、米国留学・きびしい酪農実習をして帰国した後、本格的な酪農経営に取り組みます。
時代が少し前後しますが、苦労を重ねて酪農業を立ち上げた宇都宮仙太郎(1866~1940)や黒沢酉蔵(1885~1982)らの努力があって、後に雪印乳業設立の重要な役割をはたすことになります。黒沢は、1933年(昭和8年)、江別に「酪農義塾」(現在の酪農学園大学)を設立しています。
今回は、こうした「酪農王国」北海道の基礎を築いた先駆者たちの苦労とその業績にスポットをあてて検証してみたいと思います。まず,その前史ともいうべき幕末、そして明治の開拓使時代(1869~1882)の農業、牧畜・酪農の歴史をたどることから始まります。

■ 時代背景として―札幌村の開祖 大友亀太郎 
  江戸幕府は、ロシアの南下に対する蝦夷地警備のために、1854年(安政元年)箱館奉行所を設置し、ます。そして、内陸部開拓のために、二宮尊徳(1787~1856、江戸後期の農政家)一門に協力を要請します。1858年(安政5年)になって、報徳思想を体得した門下生の「大友亀太郎」(1834~1897、当時25歳)が、幕府の命令により蝦夷地に渡ることとなりました。
  大友亀太郎は、箱館奉行から開墾場取扱いの辞令を受けて、苦労の末原野を切り開き、道路を作り、用水路を掘って、木古内・大野村・次いで七飯に御手作場(おてさくば・開拓農場)を開設しました。
また、1868年(明治元年)7月、箱館府の99年間祖借地契約による、ガルトネル七重村開墾農場は、開拓使が交渉を重ね、1870年(明治3年)12月、明治政府が莫大な賠償金を支払って取り戻しますが、彼の西洋式農業経営紹介は,道南の農業開拓の基礎となり、その功績は大きいといわれています。
  大友亀太郎は、開墾農場開設の業績が高く評価されて、1866年(慶応2年、当時32歳)、蝦夷地開墾掛を命ぜられ、石狩開墾に関する計画書を提出して、4月23日、高木長蔵ら数名とともに石狩に入りました。早山清太郎を案内役として御手作場(おてさくば・開拓農場)をサホロベツ(アイヌ語で大きな乾いた広い土地という意味)と決定して、伏古川のほとりで開拓に着手したのでした。(これが「札幌村」の原点となりました)。当時、大友亀太郎より先に、発寒には山岡精次郎、篠路には荒井金助、早山清太郎、豊平川両岸には志村鉄一、吉田茂八らが入植していました。
  大友亀太郎は、田畑の開墾に先立って、資本を導入して、石狩などから多くの人夫を集めて、豊平川支流から水を引いて、北に水路を掘り進め、現在の南3条から北6条までは直線に(現在の創成川)、そこから東北に曲って北13条東16丁目のところで伏古川に合流するという用水路の大工事を、1866年(慶応2年)5月から始めて、同年9月9日に完成・通水させています。
  *これが「大友堀」といわれるもので、堀の大きさは長さ約4km、深さ約1.5m、上幅約1.8m、下幅1.2mという大規模工事で、毎日40~50人の人夫が働く「一万両の大工事」といわれるものでした。完成した「大友堀」は、用水路、運送路として、多目的に利用されましたが、1925年(大正14年)ごろ、北6条から伏古川の間は埋めたてられました。その後、札幌から茨戸までの「寺尾秀次郎堀」と結ばれて、一直線の川筋として今日に至っています。
 大友亀太郎は、さらに道路や橋なども作り、翌1867年(慶応3年)4月、箱館近郊から20戸70余人の入植者を迎えて、田畑を開墾し、その年の秋には若干の米も収穫します。こうして、明治以後の札幌開拓の先駆的な役割を果たしたのでした。(後に、札幌官園のエドウィン・ダンなどの指導で各種作物が栽培されます。)
  大友亀太郎は、1868年(明治元年)7月、箱館裁判所付属となります。12月石狩当別の土地調査・移民受入れに着手。明治2年(1869)8月、苗穂村を開墾しますが、この年の12月に、元村・苗穂の開墾地を開拓使に引き渡して、翌1870年(明治3年)1月、新しく拝命した開拓使掌を辞して苦難の開拓12年の北海道を去りました。その後の大友亀太郎は、茨城県・島根県・山梨県の要職を経て、1874年(明治7年)故郷神奈川県に帰り、戸長などを務めて、1881年(明治14年)県会議員に当選、以後4期連続当選。1897年(明治30年)12月14日、64歳の生涯を終えています。

■ 開拓使時代のお雇い外国人―ケプロン人脈の指導者たち 
  さて1869年(明治2年)7月、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、1870年(明治3年)5月、開拓次官となった黒田清隆(1840-1900)は、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求めて、マサチューセッツ州出身の米国農務長官ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)を開拓使顧問として招聘します<この経緯は「HOMAS」№43に詳述>。
ケプロン(1871年(明治4)8月25日来日~1875年(明治8)5月23日離日)は、1871年(明治4年)8月、書記兼医師としてジョウジタウン医科大学解剖学助手・合衆国農務省図書館司書をしていたエルドリッジ、科学技術師として工学・地質・鉱学関係担当の技師として合衆国農務省に勤務していたアンチセル、測量・土木関係担当の技師としてバルチモア・オハイオ鉄道に勤務していたワ―フィールドという優秀なスタッフを伴って、最初の開拓使お雇い外国人として来日します。ケプロンの指導で、早速、東京の青山・赤坂・麻布に官園(農業試験場)が設けられ、北海道に導入する作物の試作・家畜の飼育や農業技術者の養成が行なわれます。(この事業責任者が村橋久成です。) 
  最初に、アンチセル、ワーフィールドの開拓予備調査。そしてケプロン自身の3回にわたる道内各地の長期視察・調査を通してまとめられた「ケプロン報告書」<①明治4年(1871)11月、②明治6年(1873)11月、③明治8年(1875) 3月>、さらに離日に際して、「報文要略」を開拓使に提出しています(ケプロンの滞日3年10ヶ月)。これらの、「報文」は、北海道の基本的な開発計画を提言し、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを提言、その後の北海道開拓の重要な指針となります。
     *ケプロンは、帰国後はワシントンに在住して静穏な余生を送ったといわれます。1876年(明治9年には、ワシントン哲学会で「日本」と題する講演をし、また1877年(明治10年)西南戦争に際しては、黒田の要請(黒田は65,000ドルをケプロンに送金)に応じて鉄砲・弾薬の調達をしたり、開拓使からのいろいろな依頼に対応してなお日本に目を向けていたといわれます。晩年のケプロンにとって、日本とのきずなは貴重であったようです。ケプロンは時折、自宅に議員や各省の高官を招いて、日本から持ち帰った美術工芸品を披露するのを楽しみにしていたそうです。ケプロンの人柄は、いつも誠実で奥ゆかしい態度で人に接し、虚飾を廃した質素な生活を好んだといわれます。
  1884年(明治17年)1月、日本の天皇から勲二等旭日章が授与されました。ケプロンは、勲章と日本でのケプロンの功績を書き連ねた天皇署名入りの賞状に「深い感動」をおぼえたといわれます。
  そして、1年後の1885年(明治18年)2月21日、ケプロンはワシントン記念塔完成を祝う式典に出席します。その日はよく晴れていたが、風の冷たい日であったそうです。帰宅後、気分の不調を訴えたケプロンは、その翌日、80歳の生涯を閉じたのでした。
  ケプロンは、開拓使顧問在任中は、黒田の信頼もきわめて厚く、職務にたいしては誠実そのものであったといわれます。しかし、ケプロンの指導による北海道開拓事業の成果にたいしては、開拓使官員や内外新聞の批判、多くの優秀な部下たちとのトラブルなどもあって、きびしい評価もあったようです。ケプロンの北海道の総合的な開発の計画・構想は開拓使に対してのみ向けられ、顧問としての職分に徹していたようです。
  ケプロン在任中のお雇い外国人の大半は、ケプロンの推薦・承認のもとに採用されたこともあり、多くのアメリカ人技術者が中心となっています。地質・測量・鉱山開発のベンジャミン・S・ライマン>(1835-1920)<1873・明6、1,18来日~1880・明13、12,22離日・滞在6年半> 助手マンロー(1872・明5来日~後,コロンビア大学 学部長)などがいます。
  また、ケプロン帰国後も、札幌農学校関係では、初代教頭・農学・化学・数学のウィリアム・S・クラーク1826-1886)<1876・明9、7,31来札・当時50歳~1877・明10,4,16離札・滞在8ヵ月16日>、土木工学・数学・第2代教頭で、時計台・モデルバーン・ 豊平橋などを設計したウィリアム・ホイーラー(1851―1932)<1876・明9、7,31来札・当時25歳~1879・明12,12帰国・滞在3年半>、 化学・農学・数学・第3代教頭で、石鹸・ローソク・マッチ・コークス・魚油などの製造実験をしたディヴィド・ペンハロー(1851-1932)<1876・明9、7,31来札・当時22歳~明13,8・滞在4年間>、農学・官園監督・第4代教頭で、丘珠タマネギ・トウモロコシ・カボチャ・トマト・キャベツなどを栽培したウィリアム・ブルックス(1851-1938)<1877・明10、2来日・当時26歳~明21・滞在10年7ヶ月>、生理学・解剖学・病院医術顧問で札幌の病院施設の充実・学校の身体検査の創始などに努めたジョン・C・カッター(1851-1909)<1878・明11、9来日~1887・明20,1・滞在8年4ヶ月>。
  *カッターの死後1910年、遺言により札幌市に寄付された500ドルをもとに1938年(昭13年)に大通西5丁目の「聖恩碑」四隅にカッターさんの水飲み場が設置されて、今日も使用されています。
  数学・土木のピーボディー(1878・明11、12着任~明14,7離任)、サマーズ(1880・明13、6着任ー明15、6離任)、ストックブリッジ(1885・明18、5着任ー明22、1離任)、ヘート(1888・明21、1着任ー明25・8離任)、ブリガム(1889・明22、1着任ー明26、11離任。<外国人教師の最後>)など合計10名を迎えています。これら札幌農学校初期の米国マサチューセッツ州出身の教師は、総じて勤勉で献身的に職務以外の仕事にも非常に熱心に取り組み、ほんとうに北海道開拓期の立派な指導者でした。
  さらにまた、茅沼・幌内炭鉱のゴージョー、ダウス(2名、1879・明12来日~)、鉄道敷設・土木顧問のジョセフ・クロフォード(1878・明11来日~)、水産加工・魚肉缶詰製造のトリート(1877・明10来日~)などが招かれており、ケプロンを筆頭に、合計78名の「お雇い外国人」中、48名がアメリカ人でした。

■ 北海道牧畜酪農の指導者―エドウィン・ダン
  ケプロンの進言により、まず、1873年(明治6年)7月、オハイオ州で牧場経営をしていたエドウィン・ダン(1848~1931)が、A・B・ケプロン(ホーレス・ケプロンの息子)の依頼を受けて、米国の進んだ畜産技術指導のために、牛20頭・羊100頭とともに大陸横断の苦難の末来日します。早速、東京麻布の第3官園で約30人の生徒に実技指導を行い、北海道開拓に役立つ技術者養成のために実技を主体にした畑作や畜産の技術を幅広く指導します。
  ダンは、1875年(明治8年5月、北海道「七重官園」(現在の七飯)に、5ヶ月の長期出張で来道、農業技術や馬の改良に欠かせない去勢技術の普及に努めます。この期間中、札幌官園、新冠牧場も視察しました。また七重では「妻となるべき女性」ツルにも出会いました。後に、国際結婚の難しい手続きを経て、正式に結婚。日本永住の決意を固めたのでした。
  1876年(明治9年)6月、ダンは、園芸担当のボーマーと共に「札幌官園」に転勤し、直ちに真駒内牧牛場の建設に着手、搾乳場・乳製品加工場・用水路など、酪農・牧場の基礎が整備されていきました。
  とりわけ、エドウィン・ダンが完成させた「真駒内用水路」(~明12年・1879年完成)は、真駒内川から取水され、現在の中央公園の池を通り、緑町、曙公園から陸上自衛隊駐屯地を通り、精進川に注ぐ約4kmに及ぶ灌漑用水で、家畜の飲料水・農業用水・水車などにも利用され、真駒内牧牛場地域だけでなく、後には広く、平岸・豊平・白石など広域に用水を供給してきた歴史をもっています。これは北の「創成川」<「大友堀」(慶応2年)・「吉田堀」(明3)・「寺尾堀」(明3)の総称>に匹敵する歴史的価値のあるものです。
   *1876年(明治9年)7月31日、マサチューセッツ州立農科大学学長ウィルアム・S・クラーク(1826-1886)が、ウィリアム・ホイーラー、ディビッド・ペンハローとともに札幌着任。8月14日、札幌農業校開校、初代教頭(学長)となります。これに伴い札幌官園の大半が農学校の農場となったこともあり、エドウィン・ダンも、彼等と協力して、明治10年(1877)我が国最初の模範家畜房(モデルバーン)を建築しました。これは、今日も北大構内に、重要文化財として保存されています。
  明治10年(1877)ころには、真駒内の牛舎には牛107頭、馬は農耕用・乗馬用あわせて10数頭、豚も40頭くらいいたそうです。当時のエドウィン・ダンは、本府近くの虻田通り(現在の中央区北4西2)の官舎に妻ツル・長女へレン(明10生)と住み、毎日真駒内牧牛場に通っていました。
  1878年(明治11年)、ダンの提言により「新冠牧馬場」が整備され、馬産王国北海道の基礎ができたのでした。馬の改良と増殖が進められ、開拓使が米国農法を模範として、馬を使用する農機具の導入を図ったこともあり、馬による大型機械が普及して、北海道の大規模農業の発展に大きく貢献しました。また、ビール製造用の大麦・小麦・亜麻の栽培等、暗渠排水による土地改良なども、ダンの指導によるところ大であったといわれます。(今日も、多くの農機具は、プラウ・ハロー・ホークなど英語名で呼ばれています。また、バター・チーズの製造、ハム・ソーセージの加工、ミルクなどの普及もここからはじまります。) 
1882年(明15)1月、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省の所管となります。エドウィン・ダンは、この年12月、6年半にわたる北海道滞在に多くの業績を残して、家族と一緒に東京に移りました。この年、札幌農学校2期生の「町村金弥」(1859-1944)が真駒内牧牛場に勤務して、短期間ではありましたが、ダンの直接指導を受け、その技術を実地に受け継いだ最初の人となります。札幌農学校の卒業生からは、新冠御料牧場に1期生の黒岩四方進が入って、北海道の馬産に貢献し、また、2期生の南鷹次郎(1859-1936、北海道帝大初代農学部長・後第2代学長)は、札幌農学校園の経営にあたり、多くの指導者を養成し、北海道農業全般の発展に大きく貢献しています。
  *その後のダンは、明治16年(1883)、長年にわたる北海道農業・畜産指導の功績により勲五等旭日双光章を受章。米国オハイオ州に一時帰国しますが、1884年明治17年)、駐日米国公使館の二等書記官として再来日、1897年(明治30年)まで外交官として勤務。後、石油採掘事業を起こし、1912年(大正元年)三菱会社勤務。1931年(昭和6年)5月15日、東京代々木の自宅で永眠しました。(享年83歳)

■ ダンの薫陶を受けた町村金弥
  1882年の (明治15年) 1月、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省の所管<後に「真駒内種蓄場」(明19)、「北海道種蓄場」(明26)と改称>となります。この年、札幌農学校2期生の「町村金弥」(1859-1944)が真駒内牧牛場勤務となり、エドウィン・ダンがこの年12月札幌を離れるまでの短期間でしたが、ダンの直接指導を受けたのでした。エドウィン・ダンの牧牛場からはじまった真駒内の開拓は、肥沃な土地に恵まれたこともあり、地域の人々の野菜・果物作り、また種蓄場に納める牧草や根菜類の耕作も広まっていきます。
  町村金弥(1859-19449は、1859年(安政6年)1月、越前国南条郡武生(現福井県武生市)生。12歳の時上京して、同郷の日本橋の蚊帳問屋奉公しながら苦学力行、東京英語学校で英語を学び、1977年(明10)、工部大学校予備校(東大工学部前身)に合格しますが、同年、官費生募集の札幌農学校を受験して、 2期生として入学して、畜産学を専攻します。札幌農学校2期生18名には、宮部金吾・太田稲造(のちの新渡戸稲造)・内村鑑三、築港工事権威者となる広井勇、第2代北海道帝国大総長の南鷹次郎、十勝農業の基礎をつくった諏訪鹿三などがいました。
  金弥は、在学時代、ブルックスの農学の講義とアメリカ式大農経営、さらにダンの指導も受けて欧米式大農場の経営法を学んでいます。1881年(明14)7月卒業すると同時に開拓使御用掛に採用され、真駒内牧牛場の担当となり、短期間ですがダンの精力的な指導を受け、翌1882年(明15)には真駒内牧牛場長(農商務省管轄)になります。この年2月開拓使は廃止となり、ダンは職を解かれて札幌を去ります。金弥は、真駒内牧牛場が、1886年(明19)北海道庁管轄「真駒内種畜場」になるまでの5年間勤めています。金弥は本庁に戻りますが、その後、北越殖民社、雨竜華族農場の指導、十勝開墾合資会社などの大農場の経営指導にも当たっています。北海道庁の指導を受けて、1887年(明20)北海道製麻株式会社の雁木農場や、1888年(明21)北海道製糖株式会社の野幌農場設計・指導にも当たっています。事業家を招いて北海道開拓を推進、欧米農法・酪農畜産の技術指導に功績を残しています。1901年(明34)陸軍技師となり、馬の飼育改良に貢献します。晩年は、東京の大久保に在住、10年間町長を務めています。最後は、疎開先の郷里武生で1944年(昭19)没、86歳の生涯でした。
  このように、金弥は、多くの大牧場開設経営の指導に当たっていますが、最も大きな功績は、後に北海道の酪農界を代表する、「宇都宮牧場」の宇都宮仙太郎と「町村牧場」の町村敬貴の二人を養成したことだといわれます。
 宇都宮は大分県中津の出身。1885年(明18)、金弥が、牧畜を志して真駒内牧牛場を訪れた宇都宮熱意にほだされて採用、アメリカ修行、牧場独立などの援助をします。また、長男敬貴も、札幌農学校卒業後、宇都宮の世話でアメリカへ酪農修行に送り出します。敬貴が10年間修行して帰国したとき、金弥は、樽岸農場の牧草地に独立の足場を与えています。敬貴は、その後江別に移り、模範的農場経営に成功して、わが国屈指のブリーダーとして活躍するにいたります。この二人を世に送り出した、金弥の先見の明と深慮・援助は高く評価されるべきものといえます。

■ 宇都宮仙太郎
  北海道の酪農業の基礎は、エドウィン・ダンや町村金弥などによって固められました。しかしながら、まだ、牛乳や乳製品の一般的な需要が少なく、本道乳業者は苦境に立たされていました。この新しい産業第1のパイオニアが宇都宮仙太郎(1866-1940) といわれます。
  宇都宮仙太郎(1866~1940)は、1866年(慶応2年)4月14日、大分県下毛郡大幡村(現中津市)に、父武原文平の次男として生れますが、母方の家を継いで宇都宮を名のります。地元の中学校卒業後、志を立てて上京し、神田の共立学校(高橋是清校長)に入学します。下宿屋近くの牛乳屋の主人がいつも「身体を丈夫にするには何よりも牛乳が一番」という宣伝を聞きその言葉を信じたという。仙太郎は、慶応義塾の同郷中津藩出身者福沢諭吉の感化を強く受け、1885年(明18)8月、20歳の時、牧畜業経営の希望をいだいて北海道行きを決意したのでした。 
  当時、エドウィン・ダンが設立した真駒内牧牛場(後、「真駒内種畜場」に改称)は全国的に有名で、牧場長は町村金弥でした。金弥は、仙太郎の尋常一様でない熱意をみこんで、あまり丈夫でもなさそうな若者を、牧夫見習いとして日給20銭で採用したのでした。仙太郎は、すぐに熱心な働き手となりますが、1887年(明20)4月、金弥の手引きにより、あこがれのアメリカ牧畜業研究のため渡米します。最初は、放浪者のような生活の末、ワシントン州のデビス牧場を振り出しに各地の牧場で実習を積み、最後はイリノイ州のガラー牧場でした。ついでウィスコンシン州農事試験場の実習生となり、州立農科大学のショ-トコースに学び、1890年(明23)3月帰国します。
  仙太郎は、しばらく金弥の農場で働きますが、1891年(明24)9月、金弥からホルスタイン2頭を借り受けて独立し、元札幌農学校長森源三の土地(現知事公館の西北角)を借りて、市乳の配達販売を開始。残りの牛乳はバターにして豊平館に収めたのでした。これが北海道酪農史上、民間のバター製造販売の最初といわれます。仙太郎は一時上京して、牛乳販売をしますが東京進出はうまくいかず、1898年(明31)9月再び札幌にもどって、「札幌バター」の製造に取り組みます。

                       


上白石にあった宇都宮牧場(1922年・大11頃)   


上野幌の宇納牧場(1927年・昭2頃)現雪印種苗センター

  1902年(明35)5月、上白石に土地20町歩を購入して、牛舎を新築、大型のサイロも建て、ホルスタイン種20余頭を飼って、牛乳販売・バター製造などを開始します。以後25年間「宇都宮牧場」の本格的な酪農経営に当たります。民間人初の種牛輸入による品種改良、共同組合方式の資材調達、本格的なバター製造など、日本近代酪農の基礎を築いたのでした。仙太郎は全国から慕って集まってくる後継者を育て「日本酪農の父」と呼ばれ、アメリカに留学してホルスタインの品種改良に務めた長男の勤は、「日本ホルスタインの父」といわれました。
  1905年(明38)7月31日、後の酪農学園創立者となる黒沢酉蔵19歳が、当時の札幌区長阿部宇之八の紹介を受けて、この宇都宮牧場を訪ね、牧夫としての第一歩を踏み出します。酉蔵は、仙太郎の説く“酪農三徳”「牛飼いには三徳がある。第一に役人に頭を下げなくてもよい。第二に牛には嘘をつかなくてもよい。第三には牛乳が飲める。牛乳は人を健康にする。」という言葉に心酔したといわれます。この宇都宮牧場には、多くの若者が集まってきました。その中に、小学校4年生の佐藤貢(後、雪印乳業初代社長)もいました。これは、父佐藤善七(道庁役人・後札幌信用金庫理事長)が、仙太郎の真剣な働きぶりに感銘をうけて息子を修行のために送り込んだといわれます。 
  1906年(明36)、40歳の仙太郎は、再び渡米して、同業者の協力も得てホルスタイン牛50頭を買い付けます。これが、後の北海道はもとより、広く日本全国の酪農業を大きく向上させる「基準牛」になったといわれています。  
  1915年(大4)、市乳業者が結集して札幌牛乳販売組合(後の[札幌酪農組合])をつくり、仙太郎が会長に選ばれます。1921年(大10)、第16代北海道長官宮尾瞬冶が、道の方針として酪農振興を取り上げ、デンマーク農法を導入することとなり、北海道の酪農業は、ますます発展していきます。
  1924年(大13) 宇都宮牧場を上白石から上野幌に移転。デンマーク留学帰りの出納陽一と「宇納農場」を開きます。そして、アメリカオハイオ州立大に留学していた佐藤貢を工場技師に迎えて、バター・チーズの本格的製造を開始、乳価問題など多方面の問題に対応していくことになります。これが、後に「雪印乳業」と名を変えて、牛乳・バター・チーズなどの製造販売で、日本の食生活を大きく変化させることになります。
  1925年(大14)5月、全道の酪農家629人が結集して「北海道製酪販売組合」(雪印乳業の前身)が発足。組合長には、最も信頼厚い59歳の宇都宮仙太郎が就任したのでした。その後、全道に工場を設け、さらに市乳やアイスクリームなど多方面の製品を出し、次第に大企業体に成長していきました。仙太郎はそんな多忙な中にあっても、長男の勤に種牛を輸入させて、優良なホルスタイン牛の飼育・普及を大事にしていました。国内の品評会では他の追随をゆるさず、優勝をかさねています。
1934年(昭9)6月7日、仙太郎は、畜産指導講習会で、北海道における家畜飼料について講義中、突然脳溢血で倒れたのでした。その後回復はしますが、1940年(昭15)3月1日逝去。74歳の生涯でした。勲6等瑞宝章を授与されています。

★ 札幌村の開祖 大友亀太郎(1834~1897)を記念するもの
①「大友亀太郎像」(札幌市中央区北2条西1丁目)
  昭和61年(1986)5月、農民彫刻家松田与一氏(上川管内東川町)制作による「大友亀太郎像」が、昔、「大友掘」と呼ばれた創成川沿に建てられています。詳しい歴史説明の石版もあります。創成川通大規模工事(2005-2011)の期間、札幌村郷土記念館前に移設。復元後、札幌村郷土記念館保存会により、郷土記念館前にも、東区役所ロビー像を複製した「大友亀太郎像」が、新たに建立(2011,11)されています。
②「札幌村郷土記念館」(札幌市東区北13条東16丁目2-6)
  昭和52年(1979)4月、地域の人々によって、大友亀太郎の札幌開拓の先駆的事業に関する資料、わが国の「玉ねぎ」栽培の先進地としての歴史的資料などを保存する資料館として開設されました。 昭和62年(1987)2月札幌市有形文化財指定。記念館の敷地は、大友亀太郎役宅跡として史跡に指定されています。入館無料・10時~16時。(月曜日と祝日の翌日、年末年始は休館です)
③ 「大友公園」(札幌市東区北13条東16丁目3)
   昭和42年(1967)、札幌市が土地区画整理事業により、この地に公園を設置しました。その際、厳しい北国の自然と闘い、遠大な理想をもって開拓を進めた先人の偉業を偲ぶ記念公園として、「大友公園」と名付けられました。当時の歴史再発見の広場となっています。詳しい歴史説明板があります。
★ 日本畜産の指導者 エドウィン・ダン(1848~1931)を記念するもの 
① エドウィン・ダン像」(七飯町庁舎内)(札幌市南区真駒内泉町1-6エドウィン・ダン記念公園内)
1962年(昭37)設立「エドウィン・ダン顕彰会」(会長町村敬貴)により、ダンの銅像・記念館の建設、「エドウィン・ダン日本における半世紀の回想」(高倉新一郎編・昭37刊)の出版などが計画されます。この銅像は、彫刻家峯 孝氏の制作により、昭和39年に建てられたものですが、明治初期に、ダンが畜産指導にあたった七飯官園と真駒内牧牛場との両地にあります。
② 「エドウィン・ダン記念館」(札幌市南区真駒内泉町1-6エドウィン・ダン記念公園内)
   エドウィン・ダン(1848~1931)の指導により、明治9年(1876)から建設に着手、真駒内牧牛場の施設が整備されて、本格的な酪農畜産がスタートしました。 明治26年(1893)には、北海道種蓄場になり、名実ともに、北海道の家畜改良や技術普及のセンターとしての役割を果たしてきました。しかし戦後、米軍が接収されたため、一時新得町に移転しました。その後、この由緒ある建物をぜひ残したいということになり、昭和39年10月、「エドウィン・ダン顕彰会」により、現在地に移設され、関係資料を展示することになったものです。
  この記念館は、昭和40年から、一木万寿三画伯によるダンの生涯と業績を描いた絵画を中心に、北海道の開拓初期の写真、種蓄場の模型などを展示しており、平成12年に、国の登録有形文化財に指定されました。建物は昭和40年、札幌市に移管され運営されていましたが、老巧化のため約8,000万円をかけて本格的な改修工事を行い、平成15年5月リニューアルオープンを機に、地元住民「エドウィン・ダン記念館運営委員会」、平成23年度から有志「エドウィン・ダンの会」により運営されています。入館無料・9時30分~16時30分。(毎週水曜日休館:11月4日~翌3月末日は金・土・日のみ開館しています。)
★ 日本酪農の父 宇都宮仙太郎(1866-1940)を記念するもの
 ①「日本近代酪農発祥の地」碑(札幌市白石区菊水1条3丁目、現在菊水やよい会館前)
   1902年(明35)~1927年(昭2)の25年間、20ヘクタールの宇都宮牧場(写真7頁)があり、サイロなどをもつ本格的な牧場で,ホルスタイン20余頭を飼育,牛乳販売・バター製造など,日本近代酪農の基礎を築きます。
 ②「宇納農場」(札幌市厚別区上野幌1条5丁目1-6、現在雪印種苗園芸センター敷地)
   1924年(大13)、もともと「出納農場」を、宇都宮仙太郎が参画して、デンマーク留学帰国の出納陽一と共同で「宇納農場」として開設。バター工場を造り本格的に製造を行う。現在は, 〇雪印乳業の前身・北海道酪農販売組合が1925年(大14)宇納農場の製酪所を借りてバター製造を開始した「雪印バター誕生の記念館」、〇「酪聯発祥の地」碑(1958年・昭33建立、黒沢酉蔵書)、〇マンサード屋根の美しい「出納邸」(出納陽一氏邸宅、1925・大14建)、〇札幌軟石のサイロ、などが保存されています。

  ■ あとがき
   この「北海道開拓の基礎を築いた指導者たち」シリーズの原稿執筆にあたり、北海道近代化の歴史が、いかにアメリカの深い影響下に発展してきたかと驚きを新たにしています。開拓使設置、黒田清隆によるホーレス・ケプロンをはじめとする多くのアメリカ人指導者の招聘・・・今回の北海道酪農業の分野においても、エドウィン・ダンというすばらしい「アメリカ人」指導者なくしては、その後の道筋はできなかったでしょう。毎回資料を読みながら感動しています。
(執筆担当:中垣正史)


<主な参考文献及び参考資料>
□「北海道酪農百年史―足跡と現状及び人物誌―」木村勝太郎著 樹村房1985  □ 「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版  □ 「札幌百年の人びと」札幌市史編さん委員会編 札幌市発行  □ 「ひらけゆく大地(下) 開拓につくしたひとびと」 第四巻 北海道総務部文書課編集 理論社刊   □「のびゆく北海道(下) 開拓につくしたひとびと」6 北海道総務部文書課編集 北海道発行  □「北海道牛づくり百二十五年―町村敬貴と町村牧場―」蝦名賢造著 ㈱西田書店  □ 「私の履歴書-21--町村敬貴」 日本経済新聞社編集・発行  □ 「町村敬貴伝」蝦名賢造著 町村敬貴記念事業の会発行  □「宇都宮仙太郎」黒沢酉蔵著 酪農学園出版部発行  □「牛飼いからの伝言―黒沢酉蔵の生涯」仙北富志和著(非売品)   □ 各地の現地リサーチ資料  □ インターネット資料など 





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