北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -24-

HOMAS  (NO.69)2013. 7. 31発行
北前船」交易の歴史と蝦夷地に繁栄をもたらした豪商たち(2)

-北海道航路の船主たちー 高田屋嘉兵衛・銭屋五兵衛・小納宗吉 他-

<「HOMAS」68号の続きとして、北前船航路の船主たちを中心に記述していきたいと思います。>

■まえがき
  江戸から明治にかけて、北海道・東北・北陸と大阪・京都を結び、さらにその先世界へと続く黄金の「海道」があり、その主役が「北前船」(きたまえぶね)でした。この「北前船」は、さまざまな物と人と文化を運び、近代文明の礎となったといえます。
  後には、「昆布ロード」と呼ばれ、蝦夷各地の昆布が日本の食文化の革命を起こしたといわれます。「秋田おぼろ昆布」「富山ニシンこんぶ巻き」・・・・・「京都ニシンそば」と各地の食を変え、日本料理最大の革命「ダシ」となり、昆布は、京料理・日本料理の味の基本となります。
  北前船の往来で運ばれたのは、北海道からの鰊粕、昆布だけではなく、各地からの食料、生活用品、薬草、祭りなど、そして船を安定させる重石として運ばれた石材・瓦などもあり、これらが、日本全国各地の生活を大きく変えていきます。全国各地から次のようなものが運ばれました。
  加賀の建莚、越後の縄・米、秋田の実子縄、越前富山の干莚、信越の輪島塗・山中春慶塗・九谷焼、山陰の松江茶・宍道湖燈籠・蹲(つくばい)、北陸の屋根瓦・すり鉢・若狭莚・敦賀ろうそく・傘、九州の有田焼(茶碗)・薩摩焼(花瓶)、瀬戸内の酢・塩、大阪の木綿・雑貨・白砂糖、灘の酒などがあげられます。
  北前船による交易は、物価の情報をいち早く入手して、各寄港で大きな商売をしながら大阪と北海道を往来することにより、「一航海千両」といわれる大きな利益を上げた豪商船主を産み、日本海沿岸各地に繁栄をもたらして、文化の花を咲かせたのでした。
  今回は、北海道近代化の歴史と重ねて、この日本海を主な舞台とした「北前船」による交易で、日本海沿岸の各港町の繁栄をもたらした船主にもスポットをあててみたいと思います。

■松前藩の成立 
  歴史的にはかなり古くから、アイヌ民族が本州東北部から北海道・千島列島・樺太(サハリン)を生活圏としていたようですが、14~15世紀の道南には多くのアイヌ集落があり、和人(シサム・シャモ)集団との交易が盛んに行われていたようです。また道南地域には、津軽の十三湊_(とさみなと)を拠点とした安藤(安東)氏配下の豪族による、12の「館」(たて)<城砦・拠点>を中心とした和人集落がつくられて、蝦夷(アイヌ)との産物の交易で繁栄し、その活動は日本海一帯から大陸にまで及んでいたと思われます。しかし、和人によるアイヌ人刺殺事件を発端として、コシャマイン酋長を中心とするアイヌ人側が12の「館」(たて)を激しく攻撃し、その結果、和人10館(たて)が敗れて、やっと下之国茂別館・上之国花沢館の2館(たて)が勝ち残ります。その後、上之国の守護武田(蠣崎)信広がコシャマイン酋長父子を弓で射殺、アイヌ軍が崩壊して戦いが終結したといわれます。
  こうして、武田(蠣崎)信広(松前藩の祖)が道南の館主の覇者となり、第5代武田慶広のときに豊臣秀吉や徳川家康から、独立した諸侯とみとめられて姓を「松前」と改め、「福山城」(松前城)を築城して、「松前藩」の成立となります。松前藩は、米がとれないことから「無高(むだか)の藩」と呼ばれ、海産物・毛皮などの交易で繁栄を築いていきますが、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いなどアイヌ民族との抗争も続きました。アイヌ交易の独占的な権利を得た松前藩は、交易を拡大し、松前・江差・箱館の「松前三港」を拠点として繁栄します。やがて、天明期(1781~1788)ころから、北前船の出現により、寄港地も多くなりますが、箱舘に入港する船が急激に増加するようになり、天明5年(1785)には、長崎俵物会所が箱館に置かれて、「箱舘」が俵物集荷拠点となり発展していきます。松前藩は、幕末に勤王派となったため、箱館戦争(1868-69)で土方歳三の旧幕府軍の攻撃によって落城します。そして明治2年(1869)版籍奉還を願い出て、260年余の歴史の幕を閉じます。そして明治4年(1871)、廃藩置県により「館県」となります。

■箱館港の発達 
  江戸中期からロシアの南下政策で、ロシア船が各地に寄港を求めてきますが、松前藩は、国法により交易できないと通告していました。しかし、寛政元年(1789)6月、ロシア使節アダム・ラスクマン一行が箱館に入港。これが箱館に入港した最初の外国船でした。寛政8年(1796)9月、イギリス航海士ブロートンのプロビデンス号が内浦湾に来航。(この時、ブロートン船長が有珠山や駒ケ岳などの火山群に驚き「ボルケイノーベイ(噴火湾)」と命名したといわれます。) 度重なる蝦夷地近海の外国船出没に対して、幕府は北方警備が急務であるとし、寛政10年(1798)蝦夷地直轄の方針を決定します。幕府は寛政11年(1799)東蝦夷地を松前藩から上知させて直轄し、箱館に蝦夷奉行(のち函館奉行に改称)を置きました。対外警備のため、第一に釧路・根室への沿岸道路の開削を急ぎ、官船も準備しました。あわせて西蝦夷地の交通条件も駅逓を設けるなどして幕府直轄後に大きく改善されました。(その後まもなく伊能忠敬・間宮林蔵らの測量により、ほぼ完全な北海道全図ができます。)蝦夷地の生産増強・農耕をすすめるために八王子からの屯田兵を入植させたがあまり成功しなかったといわれます。それから、場所請負人の搾取を排除するべく、蝦夷地交易の改革「幕府直捌(じきさばき)」を実施しています。さらに、キリスト教などの侵入を防ぐために、東蝦夷地全体に五カ寺が計画され、有珠の浄土宗善光寺(文化元年1804)、様似の天台宗等樹院(文化元年1804)、厚岸の臨済宗国泰寺(文化2年1805)の蝦夷三官寺が建立されました。のちに、善光寺末寺として、宗谷に北蝦夷地最大の寺院として浄土宗護国寺(安政3年1856)が建立されます。
  蝦夷地が幕府直轄地となって、箱館奉行所(享和2年・1802)が、重要な拠点となります。国後・択捉を含む東蝦夷地全域の産物が直接箱館に集荷されるようになります。高田屋嘉兵衛の択捉漁場開発もこうした状況下で幕府の命令によって行われたのでした
  「北前船」の交易ルートは、北海道南部だけでなく、早くから千島列島にまで延びていました。嘉兵衛以前の千島ルートの中心人物は飛騨屋久兵衛でした。松前藩から、根室周辺の漁業権を与えられ、根室と千島さらにロシアとの交易(密貿易)もしていたようです。千島アイヌの仲介で、日本からは米・酒・鉄鍋など、千島・ロシアからはラッコや海獣の毛皮などが扱われていました。

■高田屋嘉兵衛
  ここで、北洋漁業の先駆者、高田屋嘉兵衛(1769~1827)の生涯をたどってみたいと思います。高田屋嘉兵衛は、明和6年(1769)、淡路国百姓弥吉の長男として生まれています。<北海道開拓使設置のちょうど100年前です。> 嘉兵衛は、貧しい8人家族の長男として、12歳の時奉公に出ます。淡路島の奉公先雑貨商「和田屋」で商売のコツを学び、寛政2年(1790)21歳の時、兵庫港に出て舟稼ぎをやり、24歳で沖船頭となり回曹業を営むようになります。寛政8年(1796)3月、「辰悦丸」(1,500石積)を新造して、27歳ではじめて船主となり、箱館港に入港。その後南千島・国後・択捉との交易・開発事業のため運航することになります。
  以後、蝦夷地の産物との交易のため毎年箱館に来港するようになります。寛政10年(1798)には弟金兵衛を支配人として箱館大町に支店を設け、5艘の所有船で兵庫・大阪・下関と箱館を往復するようになりました。寛政12年(1800)高田屋嘉兵衛は、弟金兵衛とともに辰悦丸に乗り、6艘を率いて択捉島へ渡り、17ヶ所の漁場を開くことに成功します。その後、嘉兵衛は、官船5曹の建造を命じられ、ただちに大阪に下ってこれを造船し、翌享和元年(1801)4月箱館と兵庫を拠点に「蝦夷地定雇船頭」として官船及び官雇船のすべてを一手に支配して、千島方面の運航に当たったといわれます。帝政ロシアの最初の遣日使節としてラクスマンが寛政4年(1792)根室に来航、翌年6月江戸幕府宣諭使との会見を求めて松前に来航しますが、松前藩は長崎が外国との交渉窓口であるとして、ロシア側の信書を受理していません。そして、文化元年(1804)、ロシア使節レザノフが食糧補給のため、日本との通商を要求して長崎に来航しますが、幕府は鎖国を理由に、通商を拒絶。その結果、文化3~4年(1806~1807)ロシアは樺太・択捉を襲撃します。その後幕府は西蝦夷地も直轄し、南部・津軽藩さらに秋田・庄内藩からも出兵を命じて警備を強化しています。
  こうした日露の緊張下で、文化8年(1811)5月4日、千島測量中のロシア船ディアナ号鑑長ゴロウニン海軍少佐以下8名が国後島に上陸したところを、幕府役人が捕縛するという事件が起きました。ゴロウニンらは、根室から陸路護送されて7月箱館に着き、8月松前へ移され、2年3ヶ月拘禁されることになります。ゴロウニンは、帰国後の「日本幽囚記」で、松前と箱館での2年3ヶ月余りの幽閉生活で出会った日本人の印象について「天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない」と述べています。同じ文化8年(1811)8月14日、高田屋嘉兵衛は、観世丸で択捉から箱館への帰路、国後ケラムイ岬沖で、ディアナ号のリコルド副艦長に発見され、ロシア側に拿捕されます。
  こうして、嘉兵衛が、随行の5人と一緒にカムチャツカに翌年春まで拘束される事件がおこります。しかし、その拘束期間、嘉兵衛は、その率直さと正直な態度でリコルドの信頼を得るようになったといわれます。文化10年(1813)5月、リコルドは、嘉兵衛らを連れて、国後で幕府とロシア側の交渉を開始します。嘉兵衛は、人質としてではなく、調停役として、カムチャツカで学んだロシア語を駆使して、日露の交渉・調停に尽力し、ゴロウニンの釈放と高田屋嘉兵衛自身の帰還が実現します。このゴロウニン事件を機に、ロシアとの関係は改善され、緊張状態は緩和されたといわれます。その結果幕府は、直轄していた蝦夷地を文政4年(1821)、松前藩に返しています。この嘉兵衛の努力によって、その後の日露の交易も好転して盛んになりました。嘉兵衛は、こうして箱館の町を発展させ、北洋漁業のみならず日露の民間外交の基礎を築いた人物として高く評価されています。しかし、嘉兵衛は、このロシアの抑留生活で、体調をくずし、5年後の文政元年(1818)50歳の時、箱館の店と高田屋の事業すべてを弟に譲り、22年間滞在した箱館を去りました。その後、郷里淡路島で余生を送り、文政10年(1827)、59歳で、この世を去りました。その後高田屋は、天保2年(1831)、ロシアとの交易について、幕府の厳重な取り調べを受け、結果的に所有船12隻すべてを没収され、船家業差し止め、所払いの処分を受けて没落の悲運をたどっています。







       ―北海道新聞(2010年3月27日夕刊)より転載―
 (左28頁―右29頁は、見開きでご覧下さい)

■銭屋五兵衛             
  海の豪商といわれた銭屋五兵衛は、1773年(安永2年)11月25日宮越(金沢市金石)の商家の長男として生まれ、幼名を茂助といい,家督を継いでから五兵衛と名乗ります。 祖父の五兵衛は材木商を営んでいましたが、その実子弥吉郎が家名を相続して、長男茂助に譲り伝えたのでした。父弥吉郎(第6代五兵衛) の時に両替商を営み、屋号を「銭屋」としたのでした。(詳細の経緯は省きます。)
  17歳で家督を継いだ第7代五兵衛(茂助)は、次第に呉服、古着商、質商、木材商、米穀の問屋などにも経営を広げます。そして39歳の時、質流れの120石の古船を入手し海運業を始めます。その後、松前交易の北前船主となり、「海の豪商」といわれる大きな資産を築いたのでした。最盛期には、2500石積4艘を始めとして200数十艘の持ち船があったといわれます。江戸・大阪・兵庫・長崎・新潟・酒田・弘前・青森・箱館・松前など34港に支店を置き、168人の店員が活動していたといわれます。 
  また、鎖国時代にあって、朝鮮、樺太、ロシアとの交易をはじめ、沖の江良部島での対英貿易、オーストラリア・タスマニア島やアメリカ渡航説などもあり広く海外密貿易をしていたともいわれています。しかし1836年(天保7年)62歳の時、長男喜太郎商売を任せて隠居しています。
  晩年の五兵衛は、船は「浮き宝」で不安定なので、安全な陸上に資産の基礎を築きたいと考えていました。五兵衛は、多額の御用金を納めて加賀藩の財政を潤したといわれます。そして晩年、河北潟の干拓を加賀藩に願い出て、銭屋五兵衛の負担で潟を干拓し新田開発を進めます。しかし、沿岸漁民の反対で干拓作業が難行しているうちに、潟に死魚が浮き・中毒死者も出るという事態が起こり、工事2年目にして事態は一転、潟への毒物投入の疑いで銭屋一家は検挙され、加賀藩により家名断絶・財産没収となります。現在の貨幣価値で約6千億円といわれます。工事責任者の三男要蔵は磔刑となり、処刑者の総数は50人を超えたといわれます。そして第7代五兵衛は1852年(嘉永5年)11月21日、80歳で牢死という悲劇の幕を閉じたのでした。
  銭屋家の歴史は、その後「銭五顕彰会」が1968年(昭和43年)に開いた「銭五遺品館」に伝えられ、第11代五兵衛の清水五兵衛氏が館長を務めていました。
  「銭屋五兵衛記念館」が金沢市金石本町に建設され、遺品館の展示品を受け継いでいます。建造当時日本一といわれた千五百石船[常宝丸]の全長7メートルの縮尺復元船、旧本宅から移築された茶室「拾翠園」なども展示されています。
  第11代銭屋五兵衛は、書や俳諧連歌・茶道などをたしなむ文化人でもあったようです。38歳の時の「柴の戸に羽織かけおく小春哉」をはじめ、65句の俳句が残っているそうです。獄死する前年に「降る雨をふもとに見るや夕紅葉」を残しています。
  1982年(昭和57年)のある日、加賀前田家代16代当主前田利為の末娘、前田弥々子さんが銭五遺品館に海商銭五の末裔清水五兵衛館長をたずねて、130年の恩讐を超えて和解を求め、以後交流が続いているといわれます。

■北前船「長者丸」の次郎吉の漂流
  加賀藩富山・岩瀬の能登屋(密田家)所有の北前船は、大阪に米を運び、帰りには綿・砂糖を積んで日本海を北上、新潟からさらに、ニシン漁で栄えた松前・江差に寄港して大量の昆布やニシンの〆粕などを積んで南下、昆布は薩摩藩を経由して風土病に悩む中国に密貿易されていたといわれます。
   1838年(天保9年)4月24日に西岩瀬を出航した能登屋の北前船が、大阪に米を運び、その帰りの航路で、岩手・釜石を回って三陸沖を航行中、同年11月23日暴風雨に巻き込まれて遭難しました。乗組員は10名・漂流中に病死・自殺などで3人死亡しますが、7名は翌年4月24日、アメリカの捕鯨船に救助されます。捕鯨を手伝いながらハワイ・カムチャッカ・オホーツク・アラスカなど約5年間の旅を続けます。1843年(天保14年)5月23日ようやく北海道択捉島に送り届けられたのでした。しかし、無事に故郷に帰り着いたのは次郎吉ら4人だけでした。<「時規(とけい)物語」という正確な体験記が残されています。また、生還者の1人鍛冶屋太三郎をモデルにした小説が、井伏鱒二の「漂民宇三郎」です。>

■松前
   松前は、「松前藩」<無高(むだか)の一万石>として 蝦夷を支配した最北の城下町で政治の中心。蝦夷の産物を積み出す北前船の湊として賑わいます。松前城資料館には、「松前屏風」1,57m ×3,648m(道指定有形文化財)が残されています。北前船は、「弁財船」(べざいせん)が中心で、全長約30m、幅8m、帆柱の高さ28m、総重量約150tという大きな船でした。交易の主役が近江商人であったこともあり、どこか上方の面影が残る町並みといわれます。
  蝦夷地からの海産物、熊・ラッコの毛皮などを摘んだ北前船は、帰りには、主食の米・塩、生活物資を運んできました。船を安定させる重石として、越前の瓦・笏谷石(しゃくだにいし)なども運ばれ、建材、家の基礎、屋根瓦、墓石などとして使われたのでした。「福山波止場跡」が残っています。
  蝦夷地随一の賑わいを見せた松前も、明治維新による藩の崩壊とともに衰退していきます。産業をもたない松前へ入港する船は次第に減り、主役は「ニシン」漁で賑わう江差へ移っていきます。

■江差―岸田三右衛門
  松前が政治の中心であったのに対して、江差は蝦夷経済の中心として、ニシン漁とその積み出しによる「北前船」の交易によって開けた町です。町民の4割が能登出身者といわれます。江差に定住した商人の最初といわれる能登・正院(現珠洲市)出身の岸田三右衛門はニシン漁によって財を成した代表とされます。岸田家は、多いときには、12隻の船をもち、江差商人の中で最大の1300石船「栄寿丸」も所有して瀬戸内まで航海したといわれます。また、江戸時代に近江商人大橋宇兵衛が建てその後中村米吉の所有となった旧中村家(国指定重要文化財)、廻船問屋旧横山家(現在8代目当主横山敬三)など、ニシン漁最盛期には、豪商の家屋30数軒が建ち並んでいたといわれます。
   北前船が北海道の海産物を荷積みする江差は、「江差の五月は江戸にもない」とその繁栄を謳われています。「ソーラン節」はこのニシン漁の唄です。港の入り口に「鴎島」(昔弁天島)があって防波堤の役割をしている天然の良港で、かつてニシン漁で、「出船三千入船三千」といわれたほど多数の船が出入りしたといわれます。この島にある、厳島神社(昔弁天神社)は、1615年(元和元年)に廻船問屋仲間が海上の安全祈願のために建てたものといわれます。境内には、「加州橋立船頭中」の文字が刻まれた鳥居があり、1838年(天保9年)3月吉日、加賀橋立村の北前船の船頭たちが、瀬戸内海沿岸あたりから石材をはこんで奉献した石の鳥居と思われます。江差には、この交易によって伝えられた関西文化や日本海沿岸各地の風習が色濃く根付いています。信州の馬子唄を源流とする舟唄がこの地に根付き、全国に知られる名調子の民謡「江差追分」となったのでした。江差町郷土資料館の「江差屏風」「奉納船絵馬」(明18、田口伊兵衛奉納)などがその賑わいを伝えています。
  また、鹿子舞いなどの民俗芸能や京都祇園祭の山鉾巡行の流れを伝える「姥神大神宮祭」は、室町時代の建立で、8月中旬のお祭りは、蝦夷地最古のものとして370年以上の歴史を誇っています。各町内からの豪華な13台の山車巡行・祭囃子などが今日まで伝承されています。これらは、弘化年間(1840年代)、宝暦年間(1850年代)に京都・大阪方面で作製されたものといわれます。趣味・嗜好などについても、茶道・書画・俳諧・詩歌・浄瑠璃など洗練された文化も継承しています。
  北前船は本当に文字通り「宝船」だったといわれます。北海道への下り荷では、大阪の木綿・衣類・諸雑貨、堺の清酒、沖縄・鹿児島の黒玉砂糖、四国の和三盆白砂糖・煙草、播州の素麺、尾道の酢、松浜の備後畳表、三田尻の塩、下関のサツマ芋、敦賀の縄・むしろ、新潟・酒田の米・白玉粉・酒などのすべての生活物資を運んできたのでした。
 江差の廻船問屋・豪商の多くは、越後・佐渡・能登・加賀・越前・近江の出身者で、それぞれのお国ぶりを持込み、中村家、横山家、金丸家などの豪華な建築様式・家具調度品を伝えています。それは北陸・上方の商家建築を基調としたもので、京欄間・漆塗りの障子・よしず張りの夏障子・籐・蔀戸など京都の町家を彷彿とさせるものでした。

■天売島・焼尻島―小納宗吉(こなそうきち)
  また北海道の羽幌の沖に、天売島と焼尻島があります。ここもかつては、ニシン漁で栄えた島です。焼尻島には、加賀の塩屋村出身で、この島の有力なニシン建網元親方であった「小納宗吉」の大きな家が建っていました。2代目小納宗吉が1900年(明治33年)に建てたもので、間口34メートル、1階だけで500平方メートルもある大きな和洋折衷の建築でした。広い玄関を真ん中にして、右が郵便局、左が店。店では食料品・呉服・雑貨・医薬品・漁具などあらゆるものを売っていました。いわばデパートのようでした。冬の日本海は荒天続きで、文字通り陸の孤島なることがあって、物資の輸送も人の往来も出来なくなっても、人々は安心して生活が出来たといわれます。
  初代小納宗吉が北海道へ渡ったのは明治維新前後でした。郷里加賀の塩屋村は北前船の村であり、北前船の航海に船員として単身小樽に渡った宗吉は、松前に出てアワビとナマコの乾物を横浜の貿易商を通じて中国へ輸出する仕事をはじめ、この事業が順調にのびて成功したようです。その資産を基にして40歳頃、海産物の宝庫「天売・焼尻」で安定した事業を展開して、焼尻島への移住を決意したようです。宗吉は、永住すべくがっしりとした本建築の豪華な建物を建てたのでした。
  宗吉はこの家で海産物の買い付けのほかに、島民の生活を安定させるために食料品や日用品の販売もはじめたのでした。2代目宗吉が、故郷加賀塩屋最大の北前船主の家に負けないように、さらに大きく立て替えた家が、現在焼尻郷土館として使用されています。かつて、焼尻島の海浜のニシン番屋で多くの秋田衆や津軽衆が寝泊りして、浜先の海で建て網でニシンを獲り、ニシンをしぼって魚油と〆粕をつくり、〆粕を浜いっぱいに乾したといわれます。漁獲の多い時には30~40人の若衆が働き、二晩三晩と徹夜が続いたといいます。
  浜の奥の方に釜場がいくつも築かれ。まず一度にニシン千尾も入る大釜で煮上げる。それをタモ網ですくって圧搾機にかける。大きなロクロの搾木を押して圧搾する機械で作業をして、搾汁からは魚油を精製・〆粕は細かく砕いてから天日乾燥して俵詰めにしたのです。
  北海道の4月~5月は、礼文島利尻島をはじめ、増毛・石狩・小樽・江差・松前など日本海沿岸のすべての浜が、産卵のために寄ってくるニシンであふれ、膨大な量の魚肥が生産されたのでした。
  このニシン〆粕は、西日本各地の稲作、藍、綿花栽培や工芸作物の肥料として大きな需要があり、北前船の主要商品となりました。日本海はその大動脈だったのです。日本の農業を一変させた肥料といわれる「鰊粕」は、チッソ、リンが豊富で、肥料効果が非常に高いものでした。
  当時の陸上の遠距離輸送は、日本列島の地形が複雑で平坦な土地が少なく、大八車や馬車は不便であり、人の肩で背負うか牛馬の背に積んで運ぶしかなく、大量輸送には船で運ぶのが最良の方法でした。千石船1艘・乗組員十数人で運ぶ海路のルートは、陸上輸送とは比べものにならないものでした。近代の鉄道輸送やトラック輸送が発達するまでは、大量輸送には海上ルートが主力でした。北海道から南へ向けて出帆した船は、津軽半島から南の日本海沿岸の港々に立ちより、瀬戸内海を経て大阪までの航路でした。しかし、その後ニシンが不漁になると、小納家は、焼尻島から、札幌へ移っています。

■利尻島・礼文島―梶栄次郎
  長者丸の「岡使」買い付け・会計担当者として乗り組んでいた鍛冶屋太三郎の三代目子孫の梶栄次郎は、明治後期に富山・岩瀬から北前船で小樽へ航行中に礼文島沖で遭難して、島に漂着。礼文島がニシンと昆布の宝庫であることを知り、島に居を構え商売を始めて成功。ついには「礼文の殿様」といわれたといいます。
  利尻島も、明治期には、春になると帆前船が港を埋め尽くしたといわれます。ニシン漁が減りはじめて昆布漁の時代になって、ニシン漁でひと旗あげて富山に戻る出稼ぎの中には、帰るに帰られず定住するものが増えはじめたといわれます。
  また、明治時代の藤井能三は、先祖代々築いてきた北前船の経済力を背景に、郷里の伏木港築港に尽力したほか、伏木小学校、伏木測候所の生みの親となっています。

■松前藩から北海道へ
   嘉永6年(1853)6月3日ペリー艦隊が浦賀に来航します。そして翌年再来日、3月3日に日米和親条約が締結され、下田・箱館(2港)の開港が決定されました。条約締結後の4月、ペリー一行は箱館にやってきています。
また、同年8月、ロシアのプチャーチンの軍艦ディアナ号が来航、下田で条約交渉時の11月4日大地震でディアナ号が大破したため、幕府が代りの船を建造するという出来事もありました。これに対して後日、ロシア側から幕府へディアナ号の大砲が返礼として寄贈されています。
  安政2年(1855)の箱館開港を控え、箱館奉行の役所と住居の建設が急務となります。結局、武田斐三郎が設計担当した「五稜郭」が、ヨーロッパの城塞都市をモデルとして7年の歳月をかけて建設されました。またその北側に箱舘奉行所に勤務する役人約400人の住宅(長屋)が半分ほど建てられたといわれます。「五稜郭」が奉行所として使用されたのは、約4年間でした。幕府崩壊、箱舘戦争を経て、その後、明治4年(1871)には、開拓使によって取り壊されることになります。安政6年(1859)に貿易港として開港した箱舘は、欧米にも広く知られ、ロシア人やアメリカ人、イギリス人、フランス人などとの異文化交流、諸外国のさまざまな舶来品が流通する国際都市であったといわれます。明治元年(1868)1月、京都の鳥羽伏見の戦いにはじまる戊辰戦争は、2月上野の彰義隊の戦い→8月会津戦争・飯森山(白虎隊自刃)→そして翌年5月の箱館戦争で終結します。明治2年(1869)7月、明治政府により開拓使が設置され、「北海道」と改称して新時代を迎えることになります。

■小樽
  小樽のニシン漁繁栄を伝えるものとしてニシン御殿・「旧青山別邸」(国登録有形文化財)があります。山形県飽海郡遊佐町出身の青山留吉(1836-1916)は、24歳の時、ニシン漁の雇漁夫として渡道、約1年後に網元となり、明治期の積丹半島を中心に漁場を拡大して、巨万の富を得て大地主となります。漁業一筋48年、明治41年73歳の時に。留吉は北海道を去り、晩年は郷里山形で過ごします。「青山別邸」は、漁場を受け継いだ養子政吉の代になって、大正期に6年の歳月をかけて建てたものです。
北海道開拓が本格化した明治初期、小樽はその陸揚げ港の中心で、多くの「北前船」が入港しました。日本海沿岸の港町は、早くから開けていましたが。定期航路の開設は、小樽―函館間1880年(明治13年)、小樽―焼尻間1884年(明治17年)です。
  小樽には、加賀(石川県)の豪商北前船主らが競ってレンガ倉庫を建てた時期には、加賀市大聖寺瀬越町の広海二三郎の広海倉庫(1889年・明22建造)・大家七平の大家倉庫(1891年・明24建造)、加賀市橋立町の西出孫左衛門の小樽倉庫(1893年・明26建造)などが、海岸線に建ち並んでいました。この北前船の船主たちがいなかったら北海道の近代化は進まなかったとまでいわれています。小樽の平安と北前船航海安全を祈願して創建された小樽総鎮守住吉神社(1868年・明治元年創建)の大鳥居も加賀の船主広海二三郎・大家七平らによって1898年(明治31年)に寄贈されています。
  大正期に入って運河が造成(1914年・大3着工-1923年・大12竣工)され、大手商船会社の倉庫も加わって小樽運河の景観が作られていきました。
   現代の北前船ともいうべき、「新日本海フェリー・すずらん」が、北海道苫小牧東港―福井県敦賀間を約15時間で往復しています。往路は、北海道の農産物(野菜、ジャガイモ、米)、牛乳、海産物などを運び、帰路は宅配便、コンテナ、新車などを積載して運航しています。

■昆布ロ-ド
   「昆布」は、各種ビタミン・ミネラルなどを豊富に含み、古くは薬として用いられていました。蝦夷地で積み出された昆布は、北前船航路を通じ日本海沿岸の秋田・横手、北陸金沢・富山、さらに京大阪まで運ばれ、これが「昆布ロード」といわれました。これにより昆布を食用とする地域が広がり、日本各地の料理に大きな変化を与えたのでした。富山市は、昆布の消費量日本一といわれ独自の昆布文化が根付いているといわれます。
そして昆布ロードは、長崎から、さらに薩摩藩により琉球を経由して貿易ルートにのり、中国にまで延びていきました。中国では、風土病に利くとして日本の昆布が珍重されたといわれます。
   昆布の最大の積出港は箱館でした。幕末、淡路島出身の廻船問屋高田屋嘉兵衛が道東の航路を開いたことにより、道内各地の昆布の集積地となって隆盛を迎えます。江戸時代から松前藩が幕府に献上してきた「南茅部真昆布」をはじめ、「利尻昆布」、「日高昆布」、「羅臼昆布」、「歯舞昆布」などが今日も有名です。
   函館市の宝来町には、高田屋嘉兵衛の銅像と、高田屋嘉兵衛資料館があります。また根室市の金毘羅神社にも銅像が建てられています。平成11年(1999)、高田屋嘉兵衛とゴロウニン、リコルドの子孫が松前・函館を訪れて、それぞれに先祖の事積に思いをめぐらせたといわれます。

■あとがき
  今回、明治から昭和初期にかけて北海道西海岸に押し寄せ北上した「ニシン漁の隆盛」について、簡潔にまとめることの難しさを感じています。松前・江差・小樽・留萌・増毛・羽幌などの大きな港だけではなく、ほとんど北海道西部の沿岸全域に及んでいるからです。
  例えば、積丹半島西側地方の海岸だけでも、ニシン漁最盛期の遺構「袋潤」(大量に捕れたニシンを一時保管した「いけす」の跡)が多数残っています。神恵内村郷土資料館の資料によると、ニシン漁で栄えた半島西側の「岩宇場所」のニシン水揚げ高は、1912年(大正元年)に全道一を記録。ニシン場で働くヤン衆は、春の漁だけで1年間生活できたほど稼げたといわれます。ニシン漁の最盛期には、花街も羽振りのいい親方衆で賑わいを見せたということです。
  本稿では、とても北海道西海岸全域の各漁港地すべてをリサーチできませんでしたので、いつか、稿を改めて書きたいと考えています。(執筆担当:中垣正史)

<主な参考文献及び参考資料>
□「北前船の研究」牧野隆信著 法政大学出版局 1989   □「北前船 日本海文化と江差」江差町教育委員会編 北前船編集委員会発行   □ 「日本海繁盛記」 高田 宏著 岩波新書 1991   □ 「新版 北前船考」越崎宗一著 北海道出版企画センター 1972   □ 「日本海こんぶロード 北前船」 読売新聞北陸支社編 能登印刷出版部 1997   □「北前船長者丸の漂流」 高瀬重雄著   □「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版   □ 「北海道の歴史散歩」 北海道高等学校日本史教育研究会編 山川出版社  □ 北海道新聞記事   □ 各地の現地リサーチ資料   □ インターネット資料など 



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