北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -25-

HOMAS <NO66 2012,7,31 発行>>
新渡戸稲造の生涯と業績・・・長く受け継がれた「遠友夜学校」

-I wish to be a bridge across the Pacific(私は太平洋の架け橋になりたい)

■ まえがき
  札幌農学校二期生の新渡戸(太田)稲造は、「太平洋の架け橋たらん」という念願をはたし、国際連盟事務次長という第一級の国際人とし活躍した人ですが、また、信仰深い慈父として、恵まれない子弟のために無料の「遠友夜学校」を札幌の地に創設し、アメリカ人の妻メリーとともにその経営維持に努めた功績にも特別にスポットをあてて検証してみたいと思います。
  1869年(明治2年)5月、徳川幕府の最後の抵抗となった函館五稜郭戦争で戊辰戦争が終結しました。明治維新政府は、帝政ロシアの南下に対する北辺の警備を急務と考え、直ちに北海道開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改称してその開拓を積極的に推進します。
  1870年(明治3年)8月、開拓次官の職についた黒田清隆は、①西洋の新知識の導入(お雇い外国人の招聘)、②前途有為な青年の海外留学生派遣、③北海道開拓の任に当たり得る人材の養成(札幌農学校の創設)を北海道開発政策の基本として実行していきます。黒田は、1871年(明治4年)、アメリカに渡り、駐米公使森有礼の紹介でグラント大統領に面会して、日本の情勢を説き、開拓使顧問として、ホーレス・ケプロン(1804-1885)の招聘に成功。以後ケプロン山脈とも言うべきアメリカ人指導者・技術者を中心とした「お雇い外国人」を78名も招いています。開拓使は、また33名の留学生を外国に送っています。1876年(明治9年)、ウィリアム・S・クラーク博士(1826-1886)、ウィリアム・ホィーラー(1851-1932)、ディヴィッド・ペンハロー(1854-1910)の3人のアメリカ人教師を迎えて同年8月14日「札幌農学校」を開校したのでした。・・・・・<紙数の関係で、ここまでを、新渡戸稲造の生い立ちに大きな影響を与えたバックグラウンドとしての「まえがき」とします。>

■ 新渡戸稲造の家系と生い立ち
  新渡戸稲造(にとべいなぞう)の祖父新渡戸傳(つとう)は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の三本木原(現十和田市)で灌漑用水路、稲生川の掘削事業などを成功させています。父十次郎はそれを補佐して都市計画や産業開発も行っています。三本木原の総合開発事業は新渡戸三代(祖父傳、父十次郎、長兄七郎 )に亘って行われ、今日の十和田市発展の礎となったといわれます。しかし、曽祖父維民(これたみ)は、藩の方針に反対して流罪となり、祖父も藩重役への諫言癖から昇進が遅く、また父も藩財政建て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、失意の中に病没するなど、不運の家系といえます。
新渡戸稲造(1862-1933)は、1862年(文久2年)9月1日、岩手県盛岡市鷹匠小路(現在下橋町)に盛岡藩士(藩主南部利剛の用人)の父新渡戸十次郎(1820-1867)・母勢喜(せき)の三男として生まれます。当時、祖父・父の三本木原開拓地で初めてとれた稲に因んで、幼名を稲之助と名づけられます。
  1867年(慶応3年)12月14日、父十次郎死去(享年48歳)します。1871年(明治4年)8月、9歳、東京で洋服屋をしていた叔父太田時敏(1838-1915)を頼り、次兄道郎とともに上京して、築地英学校に入学します。祖父傳(1793-1871)が9月27日に死去(享年79)のため、太田時敏の養子となり太田稲造と改名します。
1873年(明治6)14歳の時、東京外国語学校英語科(大学予備門)に入学、語学(英語)の才能を現します。そして、2年後東京英語学校に入学し、この頃から内村鑑三、宮部金吾と親交を深めています。
  1876年(明治9)、明治天皇が東北ご巡幸の折、父祖の三本木原開拓をご嘉賞され「金一封」を賜ったことで、母の勧めもあり、父祖の志を継ぎ農学を修める決意をしたといわれます。いつも、母から「父祖に恥じない立派な人間になってほしい」という手紙をもらい、また「金一封」の一部を送られ、稲造は英語の聖書を買ったといわれます。1877年(明治10年)7月退学して札幌農学校を目指します。

■ 札幌農学校第二期生へ
  新渡戸稲造は、1877年(明治10年)9月、15歳、内村鑑三、宮部金吾とともに札幌農学校に第二期生(18名)として官費入学します。当時の稲造は、祖父たち同様かなり硬骨漢であったといわれます。ある時学校の食堂の張り紙に「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があったのを見て、稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫んで、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められ、友人たちの嘆願によりなんとか退学を免れるという事件があったそうです。また、教授と口論になり殴りあうこともあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家・テロリストのような意味合い)というあだ名を付けられました。しかし、稲造はきわめて成績優秀で、特に英語はいつも一番であったようです。
  クラーク博士は、一期生(16名)に対して「倫理学」で聖書の講義をし、その影響で全員がキリスト教に入信しました。二期生も入学早々一期生の伝道攻撃にあい、クラークが残していった「イエスを信ずる者の誓約」に署名したといわれます。入学以前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造も早速署名しました。翌年6月2日、内村鑑三・宮部金吾・広井勇らとともに、函館駐在のメソジスト系の宣教師M.C.ハリスからキリスト教の洗礼を受け(洗礼名パウロ)、キリスト教に深い感銘を受けた稲造は、それ以後は信仰と勉学の日々を送ります。議論よりも一人聖書を読みふける沈思黙考型となり、「モンク」(修道士)のニックネームで呼ばれるようになります。これは友人の内村鑑三等が「これでは、もうアクチーブとは言えない」として名づけたといわれます。稲造は、札幌農学校在学中は特にブルックス教授に親しく指導を受けたといわれます。
  1880年(明治13年)7月、18歳の時、10年ぶりに盛岡に里帰りしましたが、その2日前に母が亡くなっていたことを知り、その亡骸と対面して深く驚き悲しみました(7月17日、母勢喜死去享年56歳)。 
  後年、母からの手紙を一巻の巻き物にして大切に持ち歩き、いつも読み返していました。母の命日には、一人静かに部屋に引きこもって、それを見て思いに耽っていたといわれます。
1881年(明治14年)7月札幌農学校卒業、開拓使御用掛を拝命します。11月には、札幌農学校予科教授となりますが、英文学への限りない渇望をおさえきれず、新たな決心をします。

■ 「太平洋の架け橋」の夢を抱いてアメリカへ
  1883年(明治16年)5月上京、9月、英文学も学ぶべく東京大学に入学し専科生になります。当時の文学部長外山正一教授の入学詮衡にたいして、稲造は次のように答えたといわれます。
  「第一には、もし天が許せば、私は、“太平洋の橋”になりたいと思います。第二には、英語を学んでヨーロッパの長所を取り、日本にはまだ形が備わっていない農学という学問をおこしたいと思います。日本には日本の長所があり、西洋には西洋の長所があります。東西の文明が融合しなければ、文化の華は咲かないと思います。私は日本の長所を西洋に教え、西洋の長所を日本に輸入する橋渡しの役をするために、さらに英語に精通したいのであります。」
  しかし、この大学の研究レベルの低さに失望して翌年8月退学。「太平洋の架け橋になりたい」と私費で、同期生の広井勇 を追って渡米します。9月,まずハリス夫人を頼って、ペンシルバニア州のアラゲニー大学入学。当時留学生として米国にきていた佐藤昌介の強い勧めにより、10月メリーランド州のジョンズ・ホプキンス大学(JHU)に転じ、経済学・農政学・歴史学・英文学などを3年間学んでいます。ここで、稲造は佐藤昌介と同じ部屋で学生生活を続けています。 稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になって,クエーカー派の集会に通いはじめ正式に会員となり、後に妻となるメリー・エルキントンと出会っています。
  こうしている間に、前年8月帰国した佐藤昌介(札幌農学校教授兼幹事、校長事務代理)から、稲造を札幌農学校助教に任じ、満三年間農政学研究のためにドイツ留学を命ずるという辞令が送られて来たのでした。こうして稲造の将来の方針が確定し、前途に光明が輝くことになりました。
1887年(明治20年)、28歳。稲造は、ジョンズ・ホプキンス大学を中退して、5月アメリカを発ち、アイルランド、スコットランド、イギリス、オランダの先進諸国をまわり、官費でドイツ、ボン大学で農政学・農業経済学を専攻。翌年ベルリン大学に転校、さらに1889年(明治22年)、マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)に学んでいます。(4月長兄七郎46歳で死去により、新渡戸姓に復帰します。)ジョンズ・ホプキンス大学(JHU)より、バチェラー・オブ・アーツ(名誉文学士号)を受けます。

■ 札幌農学校教授として再び札幌へ
  1891年(明治24年)1月、30歳、米国フィラデルフィア市で、両家の反対を押し切って、メリー・パターソン・エルキントン(1857-1938)と結婚。2月日本に帰国して、3月教授として札幌農学校に赴任します。翌年、長男遠益(トーマス)誕生するも8日後に死亡。その後夫婦ともに体調を崩し、静養のため渡米、カリフォルニア州で転地療養します。この間に、名著「武士道」(BUSHIDO:The Soul of JAPAN ) を英文で書き上げています。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期でもあり、後に「武士道」の初版が刊行(1900年・明治33年)されると、やがて各国語に訳されてベストセラーになり、セオドア・ルーズベルト大統領にも大きな感銘を与えたといわれます。

■ 札幌に「遠友夜学校」を設立
  1894年(明治27年)1月、札幌に「遠友夜学校」を設立します。妻の実家エルキントン家はピューリタンの家系で、代々孤児の養育を続けていて、成長した孤児の遺産一千ドルがメリーに贈られて、「遠友夜学校」設立資金となったのでした。これには、夫妻の亡き子どもへの思いも重なっています。 
  当時、豊平川畔にあった札幌独立教会の施設を買い取り、稲造自ら校長となり、無償の夜間学校を開設したのです。経済的に貧しい故に向学の芽を摘まれた青少年に勉学の場を私費を投じて設置したのでした。それを支えたのは、多くの農学校の教師や学生、クリスチャンの奉仕の精神でした。「遠友夜学校」は、その名の通り昼間は働き、夜6時から授業がはじまります。十代から三十代まで種々の生徒たちで、尋常科と高等科が置かれ、多いときは250人もの生徒がいて活気に満ちていたといわれます。1897年(明治30年)稲造は体調を崩して札幌を去りますが、夜学校は、宮部金吾、大島金太郎、有島武郎らの校長代行によって引き継がれていきます。1923年(大正12年)には、財団法人に改め、施設・学校組織も充実します。1933年(昭和8年)~1938年(昭和13年)はメリー夫人が校長を務めています。その後太平洋戦争の激化により、1944年(昭和19年)数人の教師と十数人の生徒だけで最後の卒業式を行い、この年3月18日ささやかな創立五十周年祝賀式典を行ったのが、「遠友夜学校」の終幕となりました。この、札幌の不幸な青少年たちに無料で開放された私立の夜学校は、明治・大正・昭和の50年に亘り、初等部・中等部あわせて約1、200名の卒業生を送り出しています。 

■ 国際的な活躍の舞台へはばたく
  稲造は、1898年(明治31年)3月、病気により札幌農学校を退官し、群馬県伊香保温泉で静養中「農業本論」を出版。翌年、米国カリフォルニア州モントレーに渡り、療養生活を送ります。1899年(明治32年)、日本最初の農学博士の称号を先輩佐藤昌介らとともに受けています。
  1900年(明治33年)、ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務め、翌年1月帰国。台湾総督府民生部殖産局長心得に就任。翌年、臨時糖務局長となります。
  1903年(明治36年)10月、京都帝国大学法科大学教授を兼ね、翌年専任となります。1906年(明治39年)9月に、法学博士の学位を得、第一高等学校長に就任します。(東京帝国大学農学部教授兼任)(明治42年からは法科教授も兼任、農学部教授退任)。1909年(明治42年)実業之日本社編集顧問。1911年(明治44年)8月、第一回日米交換教授として渡米、翌年5月まで166回講演。翌年9月帰国。1917年(大正6年)拓殖大学第二代学監に就任。1918年(大正7年)57歳、東京女子大学学長に就任。
  1919年(大正8年)58歳、教育者で「武士道」の著者として国際的に高名な新渡戸稲造が、国際連盟事務次長に。ロンドンに留まり、翌年1920年1月国際連盟設立正式就任し、7月スイスのジュネーヴへ転じます。1921年(大正10年)60歳、バルト海のオーランド島帰属問題を解決。
  1925年(大正14年)61歳、帝国学士院会員に任命されます。1926年(大正15年)65歳、7年間務めた国際連盟事務次長を退任。貴族院議員に勅選されます。1927年(昭和2年)、3月帰国。10月菩提寺盛岡久昌寺に墓参、旧制盛岡中学校他で講演しています。
  1928年(昭和3年)、東京女子経済専門学校(現東京文化短期大学)初代校長に就任。翌年、大阪毎日新聞・東京日日新聞顧問に就任。太平洋問題調査会理事長に就任、京都にて第3回太平洋会議開催・議長を務める。1931年(昭和6年)70歳、1月産業組合中央会岩手支会長に選出される。5月岩手支会創立25周年記念大会出席のため盛岡を訪れる。6月、北海道大学で講演。10月、上海開催の第4回太平洋会議へ出席。晩年は、日本の軍国主義思想が高まり、国際連盟脱退へ進む風潮に対して、「わが国を滅ぼすものは共産党と軍部である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買い多くの友人や弟子を失ったのでした。また、1932年(昭和7年)4月渡米、反日感情を緩和するためにアメリカで100回以上講演し、日米両国平和維持のために努力するも理解されず、「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」といわれ、翌年3月失意の中に帰国しています。1933年(昭和8年)東京医療利用組合(新渡戸稲造組合長)の設立を許可されます。

■ 旅行先で、突然の死
  1933年(昭和8年)岩手県産業組合青年連盟通常総会・同総裁推戴式出席のため盛岡を訪問。そして、8月2日、日本を出発し、カナダのバンフで開催の第5回太平洋調査会議に日本代表団団長として出席しています。会議終了後9月13日ヴィクトリア市で病に倒れ、ジュビリー病院に入院します。サンフランシスコから駆けつけたメリー(萬里子)夫人、姪のメリー・デュグイッド、メイド森二枝の3人に見守られて10月15日午後8時35分永眠しました。71歳の生涯でした。17日バンクーバーに移されて荼毘に付され、18日セント・アンドリュー・ウエスレー協会の追悼告別式には700余名が参列したといわれます。その後、遺骨は、メリー(萬里子)夫人に抱かれて23日出航、サンフランシスコを経由して11月16日に横浜港に入港しています。
そして18日東京青山斎場において数千人の参列者のもとに盛大な葬儀が挙行され、12月2日東
  京多摩墓地に埋葬されて、永遠の眠りにつきました。この墓地にはメリー(萬里子)夫人(1938,12,27納骨)、長男遠益(1950,5,5納骨)、孫厭敏(1985,10,3納骨)、養女こと子(1985,11,3納骨)がともに眠っています。1937年(昭和12年)5月、多摩墓地に、新渡戸稲造博士坐像建立(朝倉文夫制作)。翌1938年(昭和13年)9月23日、メリー(萬里子)夫人が死去しています。




■ 新渡戸稲造博士を記念(顕彰)するもの
★ 盛岡市― 盛岡市とカナダ・ブリティッシュコロンビア州のヴィクトリア市は、新渡戸稲造が縁となって、1985年(昭和50年)、姉妹都市提携をしています。バンクーバー市のブリティッシュコロンビア大学植物園には、日本庭園(新渡戸記念庭園)があります。
★ 盛岡市― 盛岡市には、「盛岡市先人記念館」(盛岡市本宮字蛇屋敷2-2)や「新渡戸稲造胸像」(1976年・昭和51年11月3日建立)、「新渡戸緑地・銅像」(1983年・昭和58年施設整備)、「ビクトリアロード」命名(1995年・平成7年姉妹都市提携10周年記念)などがあります。また、十和田市には「十和田市立新渡戸記念館」、花巻市には、「花巻新渡戸記念館」などがあります。
★ 札幌市― 「遠友夜学校記念室」  1964年(昭和39年)、札幌市中央区の豊平橋付近の遠友夜学校(中央区南4東4) 跡地に札幌市の中央勤労青少年ホーム(後中央若者活動センター)が開設された時に、新渡戸稲造博士の偉業を後世に伝える「遠友夜学校記念室」が設置されました。その後、同センターの閉館にともない、2011年(平成23年)10月、札幌市資料館に移転し、リニューアルオープンしています。非常に充実した展示内容になっています。
★ 札幌市― 「遠友学舎」 北海道大学創基125周年記念事業の一環として、2001年(平成13年)9月、キャンパスの北側(中央区北18条西5丁目)に建設されました。1894年(明治27年)、新渡戸稲造博士夫妻が、貧しくて教育を受けられない若者のために開いた男女共学の夜学校「遠友夜学校」に由来します。「遠友学舎」は、地域社会と北海道大学との交流を促進するため、学生・教職員が小集会・セミナー・読書会・談話・コンサートなどを通して、同窓生・旧教職員・市民など遠来の友と語り、地域に開かれた場となることを目指しています。
★ 札幌市―新渡戸稲造の銅像 
  「新渡戸博士胸像」(北大構内) と「新渡戸博士顕彰碑」(遠友夜学校跡地・中央区南4東4)。
★ 札幌市―新渡戸稲造の偉業を顕彰する運動・・・・・
① 「新渡戸稲造・萬里子(メアリー)夫妻メモリアルデー」の集い」実行委員会(佐々木晴美委員長)が、新渡戸稲造博士が最後に来札した1931年(昭和6年)5月18日を記念日として、2002年~2008年に開催し、講演会やフォーラム、ディスカバリーウオークなどを実施しています。
② 「新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会」(秋山孝二会長)が、2013年6月22日、「遠友夜学校」の歴史を知るフォーラムを開催しました。今後、中央区南4東4の校舎跡地に記念館を建設し、地域住民の学びと交流の場とすることを目指しています。 
■ あとがき
  新渡戸稲造博士の顕彰(運動)には、「10円記念切手」(1952年10月16日)、「五千円札」(1984,年11月1日)の発行や、ジョン・F・ケネディ空港や高知龍馬空港などのように、新千歳空港を「新渡戸稲造国際空港」に改称したいという運動などいろんな形がありました。現在も、生誕・没後の周年を期して、その偉大な功績を讃える顕彰運動が続いています。(執筆担当:中垣 正史)


<主な参考文献及び参考資料>
□「北大百年の百人」 北海タイムス社(昭和51年8月)  □ 「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版 □ 「新渡戸稲造」 さっぽろ文庫 34   □「遠友夜学校」さっぽろ文庫 18  □「農学校物語」 さっぽろ文庫 61  □「悲哀に根ざした愛の教育観―新渡戸稲造とハリエット・B・ストウの比較研究」三上節子著 麗澤大学出版会  □ 札幌農学校―日本近代精神の源流」蝦名賢造著 新評論   □ 「新渡戸稲造1862-1933 我、太平洋の橋とならん」草原克豪著 藤原書店  □「太平洋の架け橋 新渡戸稲造」神渡良平著 頭脳集団 ぱるす出版株式会社  □「現代に生きる新渡戸稲造」佐藤全弘編著 教文館   □ 各地の現地リサーチ資料  □ インターネット資料など 




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