北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -27-

HOMAS(NO.72)2014. 7. 31発行
『ニッカウイスキー』をつくった 竹鶴 政孝の生涯と業績

 ー 日本のウイスキーの父 政孝と献身的に支えた スコットランド生まれのリタ夫人 ー

■ まえがき
  酒(さけ)は、アルコール飲料の総称で、その歴史は古く、有史以前からつくられており、種類も製造方法も多様です。広義には、日本酒・ビール・ウイスキー・ワインなどがあり、狭義には、日本酒(清酒)を指し、今日では, 「SAKE」が世界の共通語となっています。全体的に、大まかな歴史を少しばかりたどって、今回「HOMAS」72号では、「日本のウイスキーの父」ともよばれたニッカウイスキー創業者・竹鶴政孝(1894-1979)のウイスキーづくりへの情熱にスポットを当ててみたいと思います。 

■酒(さけ)の歴史
  BC7,000年ころ、中国の賈湖遺跡(河南省)から出土した陶器片から検出された醸造酒の成分が、いまのところ考古学的には最古の「酒」とされています。中国では、殷・周のころ、酒は国家の祝祭において重要な意味をもっており、もともと神事に供されたものであり、精巧な青銅の酒器が多く残されています。ギリシア・ローマは、葡萄の産地ということもあり、ワインが多く生産されて、酒神ディオニソス(ギリシアではバッカス)の祭事に供されたものであったようです。
  まず、酒(アルコール飲料)は,大きく分けて、次の ① 醸造酒、② 蒸留酒、③ 混成酒に分けられています。①醸造酒は原料をそのまま、もしくは原料を糖化させたものを発酵させた酒です。糖化とアルコール発酵が同時に行われる「清酒」などと、糖化の過程が終ってからアルコール発酵が行われる「ビール」などに区別されます。②蒸留酒は、醸造酒を蒸留し、アルコール分を高めた酒で、樽熟成を行わないホワイトスピリッツと何年かの樽熟成で着色されたブラウンスピリッツに分類されます。ウイスキー、テキーラ、ラム酒などがあります。③混成酒は、主に蒸留酒を原料として、香り・味付け糖分や色素を加えて造られたもので、多くの種類があります。 
  また、その原料によって、酒の種類がある程度決まるといわれますので、次に主な分類をあげてみますと、①穀物原料のもの:米(清酒、焼酎、どぶろく、紹興酒、泡盛、マッコリなど)、大麦(ビール、モルトウイスキー、麦焼酎)、トウモロコシ(バーボンウイスキー)、蕎麦(蕎麦焼酎)など。②果実原料のもの:葡萄(ワイン、ブランデー)、リンゴ(シードル)など。③根菜類原料のもの:サツマイモ(芋焼酎)などがあります。
  今日では、お酒は広く嗜好品として楽しまれ、また料理などにも用いられていますが、健康面での効用、弊害などなどいろいろありますので、ここでは詳細については取り上げません。

■ 酒の歴史ー日本の酒
  日本の酒については、3世紀に書かれた「魏志倭人伝」の中にその記述が見られますが、米の酒なのか、また液体なのか・かゆ状のものなのかなど不明のようです。酒が米を原料として造られるようになったのは、弥生時代に稲作が渡来定着した後で、西日本の九州、近畿での酒造りが起源と考えられています。この頃は、加熱した穀物(米)を口でよく噛み、唾液の酵素で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という原始的な方法によるものでした。酒を造ることを「醸す」(かもす)というのは、この「噛む」ことを語源としているといわれます。この「口噛み」の作業を行うのは巫女に限られており、酒造りの仕事は神聖なものとされていました。こうした酒造りが、次第に国内に広まっていったことは、古事記・日本書紀・風土記・万葉集などの文献に見ることができます。まだ、「神々の酒」「天皇の酒」の時代でした。
  平安時代になると、国の祭事・ハレの日の食事として、酒が供されるようになりますが、宗教的儀礼の中にあって、神に供えることで豊かな収穫や無病息災を祈り、そのお酒を飲むことで災厄をはらう、お酒は神と人を結びつける役割を担う神聖なものでした。しかし、お酒は祭礼やお正月、慶事の際に集団で飲むもので、多くは朝廷や武家、神人、僧といった一部特権階級のものでした。
  鎌倉時代になると、かなり普及するようになり、少人数あるいは個人でお酒を飲むことも一般的になってきたようです。室町時代になるとかなり一般化し、徳利などの酒器が定着し、また酒が樽に詰めて売られ、親類縁者の寄り合い酒も通常のことになったようです。酒屋の屋号も登場しています。江戸時代に入ると、お酒は一般の嗜好物として日本人の生活の一部となって今日に至ります。

■ 酒の歴史―日本のビール
  日本でのビール生産は、1869年(明治2年)、横浜の「ジャパン・ブルワリー」「スプリング・バリー・ブルワリー」が最初とされますが、日本人による最初のビール醸造は1872年(明治3年)に大阪の渋谷(すぶたに)庄三郎が造った「渋谷麦酒」といわれます。その後、日本人によるビール醸造は急激に増加して、甲府の野口正章の「三ツ鱗ビール」(1874年・明治7年)、北海道開拓使による「札幌冷製麦酒」<1876年(明治9年)村橋久成・中川清兵衛>、横浜近郊の保坂森之輔の「北方ビール」、東京の清水谷商会の「桜田ビール」、東京の宮内福三FM商会の「手形ビール」、大阪麦酒株式会社の「アサヒビール」「エビスビール」(1889年・明治22年)などがありました。その後の、好況不況の中、札幌麦酒・大阪麦酒・日本麦酒の3社の大合併による「大日本麦酒」などとなり、戦後の混乱を乗り越えて1955年(昭和30年)代以後は、ビール消費も安定的に増大して今日に至っています。現在の日本の主要ビール醸造は、キリンビール、アサヒビール、サッポロビール、サントリービールの4社です。

■ 酒の歴史ー日本のウイスキー
  日本に初めてウイスキーがもたらされたのは、1853年(嘉永3年)6月23日のこと、ペリー提督のアメリカ合衆国東インド艦隊によって沖縄に伝えられたとされています。そして約2週間後、艦隊が浦賀沖に停泊して、浦賀奉行などがウイスキーの歓待を受け、その後徳川将軍への贈り物として樽単位で献上されています。しかし、こうして伝来したウイスキーも、洋酒自体がまだまだ高価なこともあり、なかなか人々の間に浸透しませんでした。
  関東大震災の1923年(大正12年)、京都山崎で日本初のモルトウイスキー蒸留所(寿屋山崎工場)の建設が始まり、わが国独自の本格的なウイスキーづくりが開始します。そして6年後1929年(昭和4年)国産ウイスキー第1号「サントリーウイスキー白札」が誕生して、少しずつ人々が興味を持つようになってきたようです。・・・・・第2次大戦後、数度の酒税法改正により、それまで高級酒であったウイスキーも、ハイボールや氷割りなどで一般に広く飲まれるようになります。1971年(昭和46年)には、アメリカのバーボンウイスキー、フランスのコニャックに続いて、イギリスのスコッチウイスキーも、の輸入自由化・関税引下げとなり、高級酒にも手が届きやすくなり、輸入洋酒ブームが起こったといわれます。この流れを受けて、国内酒造会社も本格的に高級ウイスキー造りに参入、今日では、日本のウイスキー業界も着実に成長を遂げて、産地による分類では、スコッチウイスキー、アイリッシュウイスキー、カナディアンウイスキー、アメリカンウイスキー、そしてジャパニーズウイスキーとして、世界5大ウイスキーのひとつとして認められるようになったといわれます。

■ 日本のウィスキーの父:竹鶴政孝の生い立ち
  さて、日本のウイスキーの歴史を語るなかで、その名を欠かすことはできないといわれるのが、「竹鶴政孝」(1894,6,20~1979,8,29)です。日本で最初に本格ウイスキーを造った人物、『日本のウイスキーの父』と呼ばれています。
 竹鶴正孝は、広島県竹原町(現竹原市)で、酒造業・製塩業を営む竹鶴敬次郎の四男五女の三男として、1894年(明治27年)6月20日に生まれました。兄二人は別の道へ進んだため、政孝が家業を継ぐこととなり、大阪高等工業(後の大阪工大、現大阪大学)醸造科へ進学します。
  しかし、父の思惑とは違って、政孝は新しい酒である洋酒に興味を持ち、先輩の岩井喜一郎(摂津酒造常務)を頼り、1916年(大正5年)3月、卒業を待たずに、大手洋酒メーカー「摂津酒造」に入社します。そして、この年12月徴兵検査甲種合格のところ、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術であり、軍需産業活性化に役立つ」という判断で乙種合格となり、軍隊に入隊せず摂津酒造勤務を継続することとなったといわれます。 1918年(大正7年)、政孝は社長阿部喜兵衛から、「スコットランドに行ってウイスキーを勉強してくる気はないか」といわれます。政孝は、単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学の応用化学と有機化学の聴講生として入学することとなりました。ここでは、さまざまなウイスキー関連のこと、さらに政孝の人生を決定づける大きな出会いがあったのでした。ウィリアム教授の紹介によりウイスキーの本場、ハイランド地方のローゼスという町に下宿することになります。 このスコットランドウイスキーの本場で、政孝は、多くの蒸留所を訪ねて製造法を学び、ロングモーンの工場では蒸留器を叩いてその反響で蒸留の進行度合いを知るまでに至ったといわれます。その間、政孝は1日も欠かさず、その日見たこと習ったことのすべてを克明にノートに書き記したといわれます。後に、この「ノート」が日本の本格ウィスキーづくりに役立つことになったのでした。
  このスコットランド滞在中、グラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼まれて、「日本の柔術を習いたい」という末弟ラムゼイ少年に柔道を教えることとなり、グラスゴー校外にあるカーカンテロフの開業医カウン家を何度も訪ねた折に、後に生涯の伴侶となる女性に出会うことになります。 


来日前の政孝とリタ

  その女性は、エラとルーシーの姉、ジェシー・ロベルタ・カウン(通称リタ)(1896-1961)です。ピアノを弾き、文学好きの女性でした。彼女は政孝の夢を真摯に追い求める生き方に惹かれ、急速に親交を深めていきました。その年のクリスマスにプディング占いをしました。それは男の子のケーキに6ペンス銀貨が入っているとお金持ちになり、女の子のケーキに銀の指抜きが入っていればいいお嫁さんになるという占いでした。それがまさに二人ともピタリと当たったのでした。やがて政孝はプロポーズを決意しましたが、家族は反対でした。しかし二人の意思は変わらず、妹エラ、ルーシー、弟ラムゼイを含むリタの家族ほとんどの反対を押し切って、1920年(大正9年)1月8日結婚します。政孝26歳・リタ24歳でした。教会ではなく登記所で、2名の証人と登記官の前で宣誓と署名をするだけの寂しい結婚式であったといわれます。そしてその年11月、正孝は、リタとともに日本へ帰国しまます。
 帰国後、摂津酒造は、いよいよ純国産ウイスキーの製造を企画しますが、不運にも第一次世界大戦後の恐慌によって資金調達が困難となり計画は頓挫してしまいました。その後、1922年(大正11年)には、政孝は摂津酒造を退社。大阪の桃山中学(現桃山学院高校)で教鞭を執り化学を教えました。  
           
■ ニッカブランドの誕生
  1923年(大正12年) 大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内生産を企画し、鳥井信治郎社長がスコットランドに適任者がいないかと問い合わせたところ、「わざわざスコットランドから呼び寄せなくても、日本には竹鶴という最適任者がいるはずだ」という回答が来たといわれます。同年6月、こうして、政孝は、鳥井社長に招かれて、年俸4,000円という破格の給料で寿屋に正式入社しました。この年俸はスコットランドから呼び寄せる技術者に払うつもりだった金額とおなじといわれます。早速、スコットランドウイスキーの著名な産地ローゼスの風土に近く、霧が多い山崎の候補地選びから工場建設に携わり、翌1924年(大正13年)11月11日 山崎蒸留所初代所長として、日本最初の本格スコッチ・ウイスキー製造に取り組みます。醸造を行う冬季に故郷の広島から酒造りの「杜氏」(とうじ)を集めて製造を行ったのでした。1925年(大正14年)6月~12月には、ウイスキーおよび葡萄酒研究のため、イギリス・フランスを視察しています。そして1929年(昭和4年)4月1日政孝が製造した 初の国産の「サントリーウイスキー白札」を発売しました。発売直後は不評でしたが、その後次第に売れ、日本中から注文が来るまでになりました。1931年(昭和6年)8月~翌年2月には、ウイスキーおよび林檎酒研究のため、イギリス・フランスを視察しています。この時は、妻リタ(34歳)、養女リマ、そして鳥井吉太朗を同行しています。
  政孝は、鳥井社長の長男吉太朗をリタの元で英会話を学ばせ、後継の技師として育てて、1934年(昭和9年)3月 契約の10年が経過したことから寿屋を退社します。いよいよ北海道余市町で、本格的なスコッチウイスキーづくりをする決意をします。・・・その厳しい寒さ、足元に湧く清冽な水、大地に埋蔵するビート・・・彼が技術を学んだスコットランドに似た気候風土を持つ理想の地と考えたのでした。当時病弱気味であったリタのためにもよいと考えたのでした。資本を集め、1934年(昭和9年)7月に「大日本果汁株式会社」(現在のニッカウイスキー)を設立し、代表取締役専務に就任します。筆頭株主は加賀証券社長(加賀正太郎)。加賀の妻は、1924年以来10年間、政孝の妻リタから英会話を学んでいたことから出資を決めていたということでした。
  当初は、モルトウイスキーの熟成を待つための数年間、リンゴジュースを製造していたために、社名を「大日本果汁株式会社」としたのでした。1935年(昭和10年)5月「日果林檎ジュース」の出荷開始。他社の果汁入り清涼飲料6銭にたいして、果汁100%ジュースを30銭で販売開始しましたが、当初は、あまり売れなかったといわれます。同年9月、妻リタを余市に呼び寄せます。
  そして、1940年(昭和15年) ついに念願の第1号ウイスキーを、社名の「日」と「果」を略して「ニッカウヰスキー」として出荷したのです。政孝とリタが帰国して、実に苦節20年の歳月が流れていました。<1952年(昭和27年)に、社名を「大日本果汁株式会社」から「ニッカウヰスキー」へ変更しています。>1941年(昭和16年)には、地元の旧制余市中学校(現余市高校)の校長先生の依頼で、ジャンプ台を寄贈しています。当初は桜ヶ丘シャンツェと命名されましたが、その後「竹鶴シャンツェ」と呼ばれ今日に至っています。後にニッカウイスキーに入社した笠谷幸雄は、このジャンプ台で練習して、札幌オリンピック(1972年・昭和47年)で金メダルを獲得しています。
  1943年(昭和18年) 政孝・リタ夫妻には、子供がができなかったので、甥にあたる 宮野 威を養子に迎えています。威は広島県生まれ、広島高専 発酵工学科を経て北大工学部応用化学を卒業。後に技師として政孝の後継者になります。
  戦後の安い3級ウイスキー全盛の時代に、政孝はそれをウイスキーとは認めず、彼の本格ウィスキーを販売しなかったのでした。やむを得ず販売する際にも、「日本人に本物のおいしいウイスキーを飲んで欲しい」というこだわりから、原酒を規定の5%まで配合し、価格も高く販売したため売れ行きはいまひとつだったといわれます。当時の営業担当者を集めた販売促進の席でも、政孝は、「われわれのウイスキーは他社のものとは違う。吟味に吟味を重ねた良い品質のものであり、高くて売れないとおっしゃるなら止めていただいて結構です。われわれが誇りを持って造っていることを認識してもらいたい。」と言い放ったそうです。この政孝の自信に満ちた態度が功を奏し、やがて「ニッカ」は企業として成長していったのでした。 1961年(昭和36年)1月17日、政孝に看取られてリタは永眠しました。65歳でした。政孝は余市工場を見下ろす丘に葬り、墓石にはいつでもリタと一緒にいられるようにと自分の名前も入れました。「竹鶴政孝 竹鶴リタの墓」の日本字と並び、英語で「IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETURU BORN 14Th DEC 1896 DIED 17Th JAN 1961」 と刻まれています。

■ 世界のニッカウイスキーへ
1931年(昭和6年)8月 1962年(昭和37年)英国のヒューム副首相が来日した際、「一人の日本人青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった」という意味の発言をしたといわれています。これはもちろん、政孝のウィスキーに対する情熱と努力に対する賞賛と驚嘆の言葉でした。<このノートはしばらく所在不明でしたが、のちに政孝が当時所属していた攝津酒造(1964年10月、宝酒造に合併)関係者の子孫が保存して いることがわ かり、ニッカウイスキーに寄贈されています。>


余市ニッカウイスキー工場内竹鶴政孝胸像

  政孝念願の理想のウイスキーは、中性ウイスキーとのブレンドではなく、グレーンウイスキーを使った本物志向でした。そのためグレーンウイスキーの蒸留機にも、ウイスキーに個性を与えるカフェのスチル(蒸留釜)の導入が必要でした。1962年(昭和37年)、朝日麦酒(株)(現アサヒビール)山本社長の力添えにより西宮工場にカフェスチルを導入。このカフェグレーンから「ブラックニッカ」「ハイニッカ」が誕生しました。(*現在はこのカフェスチルは仙台工場に移設されています。)
  1956年(昭和31年)黄綬褒章を授与されています。1965年(昭和40年)政孝は、余市町の名誉町民に選ばれます。もうひとつの念願は、複数の蒸留所を持ち、異なった風土で育まれた原酒を合わせてより芳醇なブレンドウイスキーをつくることでしたが、この夢は、1967年(昭和47年)仙台新工場の建設により実現させたのでした。 1969年(昭和49年)勲三等瑞宝章を受章。1970年(昭和45年)5月ニッカウイスキー代表取締役会長に就任。同年9月には、北海道開発功労賞を贈られています。
  そして、1979年(昭和54年)8月29日 政孝は85歳の生涯を閉じました。リタの没後18年でした。墓石には「29 Th AUG 1979」と政孝の没年月日が刻まれました。今は二人一緒にニッカウイスキー余市工場を見下ろす丘に眠っています。
  2001年(平成13年)には、世界唯一のウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」主催のテイスティングコンテスト「ベスト・オブ・ザ・ベスト2001」に、「シングルカスク余市10年」などを出品。ニッカウイスキーは、「香水のような香り」「驚くほどスムーズ」「非常に力強いフィニッシュ」という世界一流のウイスキーの評価を得て最高得点を獲得したのでした。こうして日本のウイスキーの美味しさを世界に知らしめることとなり、ニッカウイスキーは、世界のニッカとなったのでした。

■ 日本人になりきった妻リタの生涯
  スコットランド人の女性ジェシー・ロベルタ・カウン(通称リタ)(1896-1961)は、まったく言語も生活習慣も違う大正時代の日本にやってきて、献身的に夫政孝を支え続けて、日本料理から漬物づくりまで得意とするまでになっていたといわれます。 <本稿では、リタの生涯について紙面の許す範囲で、ご紹介したいと思います。>
  リタは、1896年(明治29年)11月24日、スコットランドグラスゴー郊外のカーカンテロフで、
カウン家の長女として生まれています。


   
(左) スコットランドの自宅前で ルーシー・弟・エラ・リタ
(右 日本での最初の住まい帝塚山の借家二階ベランダで

  父キャンベル開業医で、妻のアイダとの間には、リタに続いて妹のエラ、ルーシー、そして末っ子の男の子ラムゼイの4人の子供がありました。長女のリタは、幼少時から、喘息気味で病弱。あまり外に出ることもなく、いつもピアノを弾いたり,読書をする日々が多かったといいます。
  リタは、グラスゴー学院を卒業、15歳の時に 親の勧めで婚約した許婚者(ジョン)がいまししたが、彼は陸軍士官学校を卒業。1914年(大正3年)第1次大戦に出征し、中近東戦線で戦死したのでした。リタ18歳の時でした。彼女は悲報に接して、何日も部屋に閉じこもったままだったといいます。その頃、カウン家では、父キャンベルは、ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本に関心を持つ親日家、弟ラムゼイは日本人から柔術を学びたいと思っていました。その後、グラスゴー大学医学部に進んだ次女エラと日本人留学生竹鶴政孝が大学の図書館で出会い、カウン家に招待されます。1919年(大正8年)6月末のことです。
 それからも、ラムゼイに柔道を教えるためにカウン家に出かけますが、両親も姉たちも柔道に感心して、政孝を歓迎しています。政孝とリタは、お互いに好意を抱き、それが愛に進んでいきました。そして、翌年6月末頃結婚の意志を固め、年末のクリスマスに招待され時のプディング占いの結果は、二人の結婚を運命付けるものとなりました。二人の結婚の意志は固く、家族みんなの反対を押し切って、1920年(大正9年)1月8日結婚したのでした。政孝26歳・リタ24歳でした。その年11月、正孝は、リタとともに日本へ帰国します。当初は大阪帝塚山の二階建ての洋館風の借家に落ち着きます。
リタは、家主の旧家(芝川又四郎)芝川家の三姉妹に英語とピアノを教え、後に帝塚山学院の英語講師もしています。この頃から、リタは余市で生涯を閉じるまで、政孝のことを、「マッさん」「マーさん」と呼んでいました。帝塚山には、イギリス人宣教師やグラスゴー大学卒業の牧師が住んでいて、リタの相談相手になっていました。
1923年(大正12年) 政孝は、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現サントリー)の鳥井社長に招かれて、年俸4,000円という破格の給料で寿屋に正式入社しました。リタは、2年4ヶ月の教師生活の後、京都山崎へ移転します。この頃流産しているようです。その後、政孝の遠縁にあたる女性が産後に亡くなり、その赤ん坊がエンゼル乳児院に引き取られていることを知り、養女として迎えます。リマと名付けて高校卒業するまで育てています。スコットランドの末妹ルーシーからは何通も手紙がきて、、母の健康がすぐれないこと、弟ラムゼイがカナダへ行ったこと、エラはロンドンで会社勤めをしていることや、ルーシーは結婚して二児の母親になり、母親アイダと暮らしていることなどが書かれていたのでした。1931年(昭和6年)8月、政孝の視察に同行して、11年ぶりにカーカンテロフの実家に帰り、母親アイダに再会しています。
  1932年(昭和7年)3月政孝の横浜ビール工場転勤に伴い横浜に引越していますが、リタの希望によりすぐに鎌倉に転居します。そしていよいよ1934年(昭和9年)12月 リタは娘のリマを連れて余余市に引越しました。この地で、リタは献身的に政孝を支えて、不況の時も、軍需景気に沸いた忙しい時も、政孝と苦労をともにして生涯を送ることになったのでした。リタは毎日、朝8時、12時、午後5時にカラン、コロン、カラン、コロン、と工場の鐘を鳴らしたといわれます。しかし、戦争中は、特高刑事に厳しく監視される毎日となり、体調を崩すこともありました。 1954年(昭和29年)の暮れから高血圧と風邪に悩まされ、肺炎になります。一時期鎌倉の逗子海岸の家で暮らして体調を取り戻しますが、結核を患うこととなり、1960年(昭和35年)夏、余市へ帰ることを希望します。その年は、養子威(たけし)の家族とともに賑やかなクリスマスを自宅で過ごしますが、年が明けてから体調が悪化して、1月17日、夫政孝と養子威・歌子夫妻その孫たちに見守られて、64歳の生涯を閉じたのでした。
  リタは、自分の母の遺産は、自分は長く日本にいて面倒をみていないからと相続を固辞しましたが、叔母から相続した遺産で余市に幼稚園をつくり、その「リタ幼稚園」は、現在も続いています。

■ あとがき
   今回の原稿執筆のため、いろいろな資料は読み込んでいましたが、去る4月26日(土)、思い切って余市の「ニッカウイスキー」現地リサーチに出かけました。札幌から電車に乗り小樽乗り換え 約1時間半で、余市駅に到着しました。駅前の広場には「リタロード」の説明版があり、広い道路が伸びていて、その先にすぐ、ニッカウイスキー工場の建物が建ち並んでいるのが視野に入ってきました。現在の余市は、まさに「ニッカ」の町という印象でした。今秋9月29日(月)に始まる、竹鶴政孝をモデルにしたNHK朝のテレビドラマ「マッサン」のブームを予感させる賑わいがありました。
   しかし余市は、古くはニシン漁の千石場所として知られ、ニシン漁として栄えました。余市川を渡っていくと、余市湾に面して松前藩のお役所「旧下ヨイチ運上家」(国指定史跡重要文化財)や「旧余市福原漁場」(国指定史跡)などが修理復元されて残っており、往時を偲ばせています。道内でも貴重な歴史遺産のひとつとされています。また、「余市水産博物館」も多くの貴重な資料を収集しており大変勉強になりました。幸い天気にも恵まれて、さらに足を伸ばして「フゴッペ洞窟」や「余市宇宙記念館」までも見学できまして,すばらしい1日となりました。 
(執筆担当:中垣正史)


<主な参考文献及び参考資料>
□「北国に光を掲げた人々―わが道をつらぬく:ウイスキーを作った竹鶴政孝」合田一道著 北海道青少年叢書(31) (公財)北海道科学文化協会編集 平成25年10月1日発行   □「北海道開発功労賞 受賞に輝く人々―洋酒開発の先駆 竹鶴 政孝」北海道総務部知事室道民課編集 昭和46年3月20日発行   □ 「ヒゲのウイスキー誕生す」 川又 一英著 新潮社 昭和57年11月10日発行   □ 「リタの鐘が鳴るー竹鶴リタの生涯」早瀬利之著 (株)朝日ソノラマ発行 1995年5月30日   □ 「私の履歴書―34- 竹鶴 政孝」 日本経済新聞社編集・発行 昭和43年   □「歴史をつくる人々 ヒゲと勲章―ウイスキー革命は俺がやる」ニッカウイスキー社長 竹鶴 政孝著 ダイヤモンド社発行  □ ニッカの雑誌「ひげ」 ニッカウイスキー株式会社   □「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版   □ 「北海道の歴史散歩」 北海道高等学校日本史教育研究会編 山川出版社   □ 北海道新聞記事   □ 余市の現地リサーチ資料  □ インターネット資料など 




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