HOMAS (NO.71)2014. 3. 15発行
近代日本の女性医師第1号・・・荻野吟子の生涯と業績
-北海道開拓期の瀬棚町で医院を開業、日曜学校も創設して伝道活動-
■ まえがき
北海道の近代化は、明治政府の開拓使設置(1869年・明治2年)により本格的な歴史を刻みはじめます。初代判官島義勇、第2代判官岩村通俊の先見の明と、続く開拓次官(のち長官)黒田清隆のすぐれた指導力により、総顧問のホーレス・ケプロンをはじめ、多くの米国の先進技術・教育の専門家が招かれて、各分野の開拓事業が進められたのでした。
また北海道各地に開拓団の入植が進められ、開拓事業にも力を入れました。各地には、キリスト教の赤心社(明14・浦河)、北光社(明31・北見)などのような開拓団体の入植も多くありました。その中には、それぞれに教育や医療の面で、献身的な仕事をされた方があります。今回は、才色兼備の“荻野吟子”の数奇な人生にスポットを当ててみたいと思います。
■ 荻野 吟子の生い立ち
荻野吟子(1851-1913)は,1851年(嘉永4年)3月3日、埼玉県大里郡秦村大字俵瀬(現在熊谷市俵瀬)の豪農荻野綾三郎・嘉与の五女「ぎん」として生まれています。荻野家は、代々俵瀬村名主をつとめてきた家柄で、苗字帯刀も許されていたそうです。俵瀬利根川べりに、大きな長屋門を持つ豪壮な屋敷を構えていて、この長屋門は荻野家のシンボルであったようです。村人は、「長屋んち」と呼んで尊敬していたといいます。この俵瀬村は、北に流れる利根川には堤がなく南に中条堤があるため、洪水のたびに水が滞留スル「水場」の村であったといわれます。
1850年(万延元年) 隣村葛和田村大龍寺の寺子屋「行餘書院」で基礎学問を勉強.父は教育熱心でしたが、四男五女のなかでも、吟子は、幼い頃から聡明で勉強好きで、父が「女に要らぬ利発ぶり」と驚嘆するほどであったといわれます。やや長じて、幕末の著名な儒学者寺門静軒の「両宜塾」に学びます。吟子は、医師で、静軒の後継者松本萬年が埼玉県妻沼村に学舎を開くと、松本の娘荻江とともに萬年の教えを受けて、ほぼ経史百家の官学書に通じ、才媛と詠われたといいます。
1868年(明治元年)、吟子18歳の年に、望まれるままに上川村の名主・稲村家の長男貫一郎(18 歳)に嫁ぎます。貫一郎は若くして名主役を務め、1884年(明治17年)埼玉県議会副議長、後に銀行の創設・経営や牧畜牛乳販売の開業など、実業家としても大成した人でした。しかし、吟子との結婚生活は長くは続きませんでした。吟子は、結婚後間もなく不幸にも夫からうつされた性病により健康を失い、2年後実家に帰され、1870年(明治3年)には協議離婚となります。
その後、上京して順天堂病院に入院します。全治は困難なものの、病状は鎮静に向かい翌年にはようやく退院できるまでになったのでした。吟子は、この病躯に加えて、男性医師による局部の診察と治療を受ける屈辱的な体験の中で、このような女性のためにも、自分が女医となる決意を固めたといわれます。再び郷里に戻り、幼時からの師松本萬年に就いて漢学の修養に努め、上京勉学の機会を待っていました。師松本萬年の長女荻江は、後に東京女子師範学校の教授ともなる才女で、学問好きの吟子と意気投合して義姉妹の契りを結んだということもあり、吟子はいよいよ学問の決意を固めて、1873年(明治6年)吟子22歳 周囲の反対を押し切って、閨秀画家奥原晴湖に伴われて上京します。吟子は、すぐに皇漢医で国学者としても著名であった井上頼圀の門に入り、学んで一年、抜群の才能と知的端麗な容貌により、才色兼備の評判を高くしたといわれます。
■ 上京、東京女子師範学校を卒業、さらに医学校へ
1874年(明治7年)夏、甲府に私塾を開いていた内藤満寿子の招きに応じて、教師として赴任します。
翌年秋、東京女子師範学校が開校します。松本荻江は、教師となります。荻江の勧めを受けて、吟子は第1期生として入学します。すでに、和漢の学に通じている吟子は、ここでも異彩を放ち、明治12年、優秀な成績で卒業します。吟子の医学への強い決意を受けて、永井久一郎教授が、当時の医学界の有力者陸軍軍医監石黒忠直を紹介します。石黒の努力により、いくつかの私立医学校に照会するも、当時は、いずれも女性禁制でした。しかし、さらに石黒の紹介で、1879年(明治12年)9月、侍医高階経徳経営の医学校「好寿院」に入学することができました。本来女性禁制の医学校に3年間も通学するためには、大変な困難があったようです。その通学姿は男子用の袴に高下駄を履くという男装で、3年間、毎日一里の道を歩いて、学校通いと学資を得るために、良家の家庭2,3軒廻って教える家庭教師を続けるという苦闘の日々であったといわれます。
■ 日本最初の女性医師の誕生
1882年(明治15年) 好寿院卒業。医術開業試験を受けようとするも、女性を理由に拒否される。以後2年ほど受験許可のため奔走しています。親戚もみな反対で、ただ一人姉の野口友子だけが援助し続けてくれたといいます。当時、吟子と同じように苦労して勉強して、開業試験の願書を提出して却下されていた女性が他にも数人いたのでした。吟子が、有名な実業家高島嘉右衛門(「高島易断」の著者)の家で家庭教師をしていた関係もあり、高島嘉右衛門―皇漢医井上頼圀に頼んで時の衛生局長長与専斎の紹介を得て、吟子は、何度も必死で懇願したのでした。
1884年(明治17年)9月、まず前期試験(物理学・化学・解剖学・生理学)を受験します。この時の女性受験者4名(荻野吟子、木村秀子、松浦さと子、岡田すみ子)中、合格者は吟子一人でした。翌年1885年(明治18年)3月の後期試験(外科学・内科学・薬物学・眼科学・産科学・臨床実験)を受験して、吟子はみごとに合格したのでした。(35歳。)そして5月、本郷三組町に小さな家を借りて「荻野医院」を開業します。わが国女性医師第1号ということで、新聞や雑誌の報道もあり、大繁盛となります。
その後、下谷黒門町に移転して婦人科、小児科、外科を開業、患者は増える一方で開業医としての経営は順調に伸びていったといいます。吟子は心優しい温かい人柄であったといわれます。また女性医師の先覚者として、女医制度創設に果たした功績も大きなものでした。
1887年(明治20年)には、生沢クノ、高橋瑞子、本田詮子、1889年(明治22年)には、采沢房栄、深萱ひね、設楽りう、岡見京子(米国医大卒)、1890年(明治23年)には、間宮八重、村上いわお、1891年(明治24年)には、前田園子ら10名、1892年(明治25年)には吉岡弥生ら6名・・・・続々と女医が誕生しています。女医志望の女子学生の多くが荻野医院に寄宿して世話になったといわれます。
吟子は、医院開業の前年にキリスト教の演説会の講話を聞いて強い感銘を受けて社会奉仕や婦人運動に心を注ぐようになります。そして、1889年(明治22年)には、本郷教会で、有名な海老名弾正牧師から洗礼を受けて、キリスト教徒になっています。
当時、婦人運動の先覚者矢島楫子らによってキリスト教婦人矯風会が結成されて、女性の地位向上を目指して、婦人覚醒運動、婦人参政権運動、禁酒運動、廃娼運動などが活発になります。
吟子は、男性支配社会での女性の不当な扱いや、男から性病をうつされて病気の再発を繰り返していく多くの女性患者に接して、なんとかして社会を改善し、女性の自覚を高めなければならないと痛切に感じていたのでした。それで吟子も、この矯風会創立に参加して、風俗部長になり、また大日本婦人衛生会幹事にも就任、さらに明治女学校の生理衛星担当教師・校医として活躍しています。
■ 無名青年との結婚、そして北海道へ
吟子が、輝かしい名声の中で仕事をしたのは、わが国女性医師第1号となった35歳から数年間でした。40歳の時から運命は大きく屈折していきます。吟子の前に、14歳年下の志方之善(しかたゆきよし)という青年が現れたのでした。志方を吟子に紹介したのは、徳富蘇峰・蘆花兄弟の実姉大久保慎次郎夫人といわれます。
志方は、熊本県人。同志社大学に学び、新島襄より洗礼を受け、大久保慎次郎の助手として伝道活動をしていました。1890年(明治23年)夏季伝道のため秩父に赴き、その帰途下谷の荻野医院に1泊したのでした。この時の吟子と志方は、周囲も驚くほどに情熱的で、運命的な惹かれ方であったといわれます。40歳の吟子は、日本的な教養も高く、名実ともに完成された知的な女性でした、26歳の志方青年のひたむきな熱烈な思いを受けて、吟子は、長い年月の間男性不信に閉ざしていた心に、あきらめていた女の喜び、生まれてはじめての恋情を燃え立たせたのでした。しかし、二人の結婚には、吟子側のすべての人が反対したのでした。年齢だけでなく、あまりにもいろいろ差があり過ぎるということで、紹介者の大久保夫妻も媒酌人を断り、海老名弾正牧師も反対したそうです。
それでも二人は、1890年(明治23年)11月25日、熊本県山鹿町の志方の生家で、ギューギ牧師のもとでキリスト教徒として結婚式を挙げています。
キリスト教は、1873年(明治6年)に禁制が解かれ、明治政府の欧化政策のもとに広まっていきますが、信徒たちの間に北海道に理想郷を建設しようという動きが起こります。志方之善も同郷の先輩の助力によって、北海道(後志国瀬棚郡)の利別原野に二百町歩の貸付を受けます。そして結婚半年後、1891年(明治24年)には、協力者の丸山要次郎他10名とともに、この利別原野を理想郷(インマヌエル)にしようと北海道に渡り、開拓生活に入ります。その2年後に今村藤次郎、金森石郎ら15戸が入植して、市街地の設置を計画するなど、今日の今金の基礎を作ったのでした。(明治30年瀬棚町から分村して「利別村」となり、昭和22年10月町制施行を機に開拓先駆者今村藤次郎・金森石郎の名前をとり「今金町」と改称しています。)
吟子は東京に残り、夫の理想実現のために資金援助をしていましたが、吟子も、之善の北海道に理想郷を建設しようというキリスト教精神に強く打たれて、いよいよ1894年(明治27年)6月
明治女学校の諸職を辞して、6月インマヌエル村に入ります。
1896年(明治29年)、吟子渡道、インマヌエル(今金町神丘)に居住し、之善の姉シメの長女トミを養女として迎えます。しかし現実の原野開拓は、高い理想をもってしても厳しいものでした。冬の厳しさ、病気、ヒグマなど猛獣の被害、さらに利別川の水害などもあって、入植者は次第に減りだします。
■ 瀬棚で医院を開業、一時札幌へ、
結局は、之善も吟子も、1897年(明治30年)に、この今金の地を離れて瀬棚に移住します(吟子47歳)。瀬棚村で荻野医院を開業し、厳しい冬も苦労しながら、遠く瀬棚全域の往診に出かけたといわれます。また「瀬棚淑徳婦人会」を結成して、みずから会長となって活動の先頭に立ち、女性たちに包帯の巻き方を教えたり、東北地方の不作に義捐金を募集するなどの福祉活動を行い、並行して「瀬棚日曜学校」も開設し、子どもたちの復員伝道をするなど、明治41年瀬棚を離れるまで継続しています。
1903年(明治36年)夫之善は同志社大学へ再入学。6月吟子は、瀬棚の医院は借りたまま「一時休業」として養女トミを連れて一時札幌へ移住します。札幌には、かつて吟子が好寿院で学んだ時の内科学の助教師撫養太郎が、札幌区立病院長として赴任していたのでした。吟子は、「婦人科・小児科専門荻野吟子」と新聞広告を出すも開業はできなかったようです。8月になって、撫養に相談しますが、吟子の学んだ医術は二十年前のもので、新しい医術の知識がなくては札幌での開業は難しいといわれたようです。二十年前、優秀な医学生であった吟子には、撫養の言葉は残酷なものでした。失意の吟子は、翌年病気となり熊谷の姉や友人の家で静養します。
■ 夫の死
1904年(明治37年)、之善は、同志社大学を卒業して、北海道に戻り浦河のキリスト教会の牧師として赴任します。翌年4月辞任して瀬棚へ戻りますが、9月23日、残念ながら開拓伝道の志半ばで病死しています。42歳でした。
■ 吟子東京へ、そして病死
1908年(明治41年)12月。吟子58歳。瀬棚を引き揚げて、東京本所区新小梅町で開業しましたが、以前のようには。振るわなかったようです。1912年、志方籍を離れ、荻野姓に復籍分家となります。
1913年(大正2年)6月23日肋膜炎により永眠。62歳でした。それは奇しくも、吟子の女医志願の談話掲載の「日本女医会雑誌創刊号発行の時でした。
夫・之善は吟子の手によってインマヌエルの丘に埋葬されました、吟子は、親族によって東京雑司ヶ谷墓地に葬られ、永遠の眠りについています。
■ 荻野吟子を記念するもの
★埼玉県-さいたま輝き荻野吟子賞 ★熊谷市-熊谷市立荻野吟子記念館 ★北海道今金町-瀬棚郷土館 ★荻野吟子女子顕彰碑(1967年・昭和42年7月)北海道瀬棚町 ★荻野吟子女子顕彰碑(1968年・昭和43年4月27日)埼玉県妻沼町 ★史蹟 荻野吟子生誕之地碑(昭和47年2月25日)埼玉県妻沼町 ★1984年(昭和59年)公認女医誕生100年を記念して、「荻野吟子賞」(日本女医会)
■ あとがき
北海道各地方に入植した開拓者たちを大きく支えた教育・医療関係者のことを取り上げたいと考えていましたが、荻野吟子(1851~1913)と同じ時代には、十勝陸別町の開墾と医療に尽くした関寛斎(1830~1912)がいます。司馬遼太郎が「胡蝶の夢」「街道を行く15北海道の諸道」に書いています。
(執筆担当:中垣 正史)
<主な参考文献及び参考資料>
□ 「北の命を抱きしめてー北海道女性医師のあゆみ」北海道女性医師史編纂刊行委員会 編集発行 ドメス出版 2006年 □ 「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版 □ 人物近代女性史⑦「明治女性の知的情熱 」 講談社文庫
□ 荻野吟子―日本の女医第1号― 奈良原 春作著 国書刊行会 □ 「札幌医療物語」 さっぽろ文庫 79 □ 「荻野 吟子」 荻野吟子女史顕彰碑建設期成会編 瀬棚町発行 □ 「わたしのクワはこの聴診器―女医荻野吟子の物語―」(時計台ものがたり所収) 大西 泰久 作 新風舎発行 昭和42年12月 □「日本最初の女医にしてキリスト者―荻野吟子 栄光と苦悩の生涯」別冊太陽 日本のこころー127 平凡社発行 □ 「荻野吟子の札幌での医院開業について」 新札幌市史編集長 海保洋子 新札幌市史機関誌第「札幌の歴史」48号所収 □ 「日本最初の女医―荻野 吟子―不屈の精神と大いなる愛」 荻野吟子没後100年記念事業 熊谷市・熊谷市教育委員会編集 □ 「明治の女性たち」 島本久恵著 みすず書房 昭和45年8月 □ 「花埋み」 渡辺淳一著 新潮文庫 □ 各地の現地リサーチ資料 □ インターネット資料など
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