北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -29-

HOMAS(NO.74)2015. 3. 15発行
北海道開拓期の官営工場設置から民営工場の建設へ
―札幌市東苗穂地区の産業遺産群(その1)「福山醸造」の創業と発展の歴史―

 ■ まえがき
  北海道の近代化は、明治政府の開拓使設置(1869・明2)により本格的な歴史を刻みはじめます。初代判官島義勇、第2代判官岩村通俊の先見の明と、続く開拓次官(のち長官)黒田清隆(1840-1900)のすぐれた指導力により、総顧問のホーレス・ケプロン(1804-1885)をはじめ、多くの米国の先進技術・教育の専門家が招かれて、各分野の開拓事業が進められました。・・・(ここまでは、本シリーズの枕詞のような毎回の「まえがき」です。)
  今回は、開拓使が、総顧問ホーレス・ケプロンの献策により、北海道工業発展のために、さまざまな官営工場を建設した、札幌の所謂「工業ゾーン」から歴史をひも解いてみたいと思います。
  当初、東京の官園内に建設予定であった「麦酒醸造所」が、官園の事業責任者村橋久成(1842-1892)の提言が認められて、村橋久成と麦酒醸造技師中川清兵により「開拓使麦酒醸造所」(1876・明9-今日のサッポロビールの原点)として誕生しています。「開拓使葡萄酒醸造所」「開拓使製糸所」などの開拓使諸工場の設置には、黒田清隆が若き日に薩摩藩で経験した近代科学重視の考え方も反映しているといわれています。
  今日、札幌市東区苗穂に、北海道の産業遺産とされる「サッポロビール博物館」「福山醸造」「北海道鉄道技術館」(JR苗穂工場)「雪印乳業資料館」などの工場・記念館群があります。こうした施設が苗穂地区にあるのは、この地域が、創成川・伏古川と豊平川にかこまれた土地で、豊富な伏流水も利用できる立地条件により開拓使時代から官営工場がつくられ、その北海道産業発展の基盤が受け継がれて、今日の「創成川イースト~苗穂」の工業ゾーンを形成してきたと考えられます。
  今回は、日本人の食生活になくてはならない味噌・醤油醸造にスポットを当てて、民営企業として誕生し、今日、全道一の発展を続けている「福山醸造」の歴史を掘り起こしてみたいと思います。

■ 官業工場の設置と払い下げ
  ケプロンは、ワーフィールドらに北海道の現地調査をさせて、1872年(明治5年)1月の「開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文」で、札幌は無尽の水力に恵まれているので、官営の生産工場を設置して機械化を進めるべきことを進言します。開拓使はケプロンの意向を踏まえて、市内大通~北1条、東1丁目~4丁目の約3町四方を工業課管理地として、アメリカ人指導のもとに米国輸入の水力・蒸気機械を設置した機械工場を建設します。こうして、機械・器具製造をはじめ、農作物や麻・繭などの札幌紡織所・加工工場などの官営工場が、ほとんど札幌に集中して設けられます。その他に、製紙所、製油所、馬具製造所、製革所、製網所。さらにアンチセルの北海道野生ホップの発見もあり「開拓使麦酒醸造所」(明9,9)、「葡萄酒醸造所」(明10,9)なども設置されます。
  1872年(明治5年)6月建設に着手、「蒸気木挽器械所」の建設・増改築を重ねて、円鋸・廻挽鋸・鉋鑿柄付鋸などの洋式鋸数基を設置しています。さらに創成川の水を引いて「水車器械所」、「煉鉄所(鍛工所)、「鋳造所」、「木工所」、「製鉄所」などを建設していきます。1879年(明治12年)には、厚別水車器械所も建設されています。開拓使の工場は札幌のほか、函館、室蘭、石狩、根室、択捉島など各地に40以上も建設されたといわれます。
  これらの官営工場の建設・経営の指導者には、N・W・ホルト(器械運転)とサンドフォード・クラーク(同助手)、マッティアス・ワーブ(革鞣師)、ユリセス・S・トリート(魚肉缶詰製造・鮭鱒孵化)とトレスコット・スェット(同助手)などのアメリカ人技術者が迎えられています。
<「水車器械所」は、冬期3か月間、創成川の水が凍って水車運転が不能になったそうですが、黒田長官がこの現状を見て、幾人かの人夫を使って厚氷を伐り流したところ、流水は平常のようになり水車の運転も出来たという話も残っています。>
  これらの官営工場は、北海道の工業発展の基礎づくりに一定の役割を果たしましたが、営業成績は一般的に不振で、後に北海道庁により廃止あるいは民間に払い下げられていきます。
  北海道では、屯田兵村に耕作させていた大麻の利用した製麻工業については、開拓使時代から企画されていましたが、1887年(明治20年)5月、札幌に「北海道製麻株式会社」が設立されます。道内産の亜麻原料は、雁来・琴似・当別・新十津川・栗山の工場で「製線」(亜麻の皮を取り除く工程)を行い、札幌の製品工場で麻糸紡績・麻織物製造の製造工程をおこなったといわれます。日清戦争期には軍需品として亜麻製品の需要が急増し、全国の製麻工場はフル操業で生産を増大させたのでした。当時、北海道製麻のほかに全国には近江麻糸紡織(明17,6設立)、下野麻紡織(明20,11)、日本織糸(明29,1)がありました。1903年(明治36年)7月に、北海道製麻を除く3社が合併して日本製麻株式会社となります。その後、日露戦争後の需要減退期には再び合併機運が高まり、1907年(明治40年)7月、北海道製麻と日本製麻が合併して、「帝国製麻株式会社」となります。
  そして、「北海道製糖工場」(明治23年)も建設されますが、原料ビートの耕作が思うように進まず、1896年(明治29年)事業を中止、1901年(明治34年)に解散しています。この工場は、明治36年、サッポロビールに買収されて新たな歴史をたどります。そして、1966年(昭和41年)、「開拓使麦酒記念館(博物館)」となり、札幌の残り少ない赤煉瓦の建物として、今日も人々に親しまれています。   
  また、エドウィン・ダンなどの指導により、有畜農業・酪農が次第に重視され広まって、牛乳や乳製品への認識も高まり、1914年(大正3年)、「北海道練乳株式会社」が設立され、1925年(大正14年)には、酪農家が集まって「北海道製酪販売組合」(→雪印乳業)が結成されていきます。
  さて、官営の味噌醤油醸造所としては、1871年(明治4年)、開拓使御用達で、従来豆麦の生産地である篠路村に「篠路村醤油醸造場」ができます。そして1877年(明治10年)には、「札幌第一味噌醤油製造所」(醤油製造所-空知通北6西1、味噌製造所-厚田通北2東3)が設置されていますが、経営が長く続かず、翌明治11年に、篠路の醸造所は澤口永将に払下げになりますが、経営不振により、1889年(明治22年)に改めて笠原文平「角一合名会社笠原商会」に払い下げられています。一方、札幌の醸造所は対馬嘉三郎「興成社」に払い下げとなります。
  1879年(明治12年)6月、開拓使は、幌内炭鉱開削開始による需要増に備えて、再び官営の「札幌第二味噌醤油製造所」(東創成町北5東1)を設置していますが、これも、1885年(明治18年)、森弥市に払下げとなります。こうした当時の官営工場の建設は、民営事業を起こす誘い水となったようです。

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■ 民営工場の建設~福山醸造の創業
  一方、民営の味噌醤油醸造業として官営払下げを受けた対馬嘉三郎は、「第一第二味噌醤油製造所」の経営を軌道にのせます。対馬嘉三郎は開拓使役人退官者ですが、すぐれた事業家でもあり、後に札幌区長・衆議院議員なども務めています。対馬嘉三郎の「興成社」は順調に業績を挙げて、札幌の味噌醤油醸造業界の重鎮となっていたといわれます。この開拓当時は、日本人の食生活にとって大切な米味噌醤油など主要食糧のほとんどすべてが、内地から船で運ばれていました。醤油の需要も札幌の開発が進むとともに急増していましたので、開拓使も「米味噌」などを重要視していました。
  その他の民営工場としては、「マル竹齋藤甚之助味噌醸造場」(明治20年1月)、「ヤマト巴醤油醸造場」(福山甚三郎)(明治24年11月)があります。
  福山醸造は、1891年(明治24)11月、北前船の回船業を営む福井の福山甚三郎が、現在の札幌駅前に醤油工場(北4条西1丁目・第1工場)を建設し、「福山商店」として創業したのが始まりといわれます。その後、福山商店は、生産量を拡大し、1918年(大正7)10月、現在地に苗穂に第2工場を建設して、「福山醸造」(東区苗穂町2)として今日まで稼働しています。豊富な北海道の大豆と地下水を利用して味噌・醤油を醸造、加工食品の販売を継続してきました。当時のレンガ造りの建物は醤油を発酵・熟成させる温醸蔵として現在も使われています。「トモエ醤油」の生産量は道内トップで、160種類の醤油が全国で販売されているといわれます。
  巴のマークは、創業当初からのもので、現在も商標として使用されています。巴(トモエ)は神社の紋章、アイヌの紋章、そして函館港のしるしでもあるという普遍性に関連付けて選ばれたといわれます。巴は「左巻き」「右巻きがありますが、商売としては左巻きは縁起がよくないということで右巻きにして、「一つ巴」「二つ巴」「三つ巴」を合わせた形が使用されています。

■ 創業者~福山甚三郎の生い立ち  
  福山甚三郎(1849-1914)は、代々航海業を営む福山甚五郎の長男として、1849年(嘉永2年)1月22日、福井県坂井郡新保村に生まれます。甚五郎は、1881年(明治14年) 航海業をやめて小樽で回船問屋を開き、京都・大阪から下関を経由して日本海沿岸を回りながら各地の産物を商っています。さらに、佐渡の味噌や秋田の米などを買い付けて蝦夷地で売りさばき、蝦夷地では岩内、小樽、利尻までも足をのばしてこの地の産物を買い付けて内地へ運んでいました。こうして、福山家と蝦夷地とのつながりが生まれたようです。しかし、甚五郎は1886年(明治19年)、59歳で亡くなります。
  甚三郎の実弟の米吉は、1883年(明治16年)に渡道しており、1886年(明治19年)になって札幌で荒物店(南2条西2丁目)を創業します。甚三郎は、父甚五郎のあとを継いで、回船問屋として「昌壽丸」「神力丸」など数隻の帆船を持って蝦夷地への回船業を営んでいましたが、1890年(明治23年)5月、利尻沖で大時化に遇い所有の商船と先代が片腕として信頼を置いていた弥助老人を失って衝撃をうけたのでした。その後甚三郎は、陸に上がる決意をして、1891年(明治24年)11月札幌で、米吉の勧めをうけて、醤油醸造業の「福山商店」(北4条西1丁目)を創め、確固たる基礎を固めます。そして後継ぎとなるべき長男甚作(後の2代目甚三郎)を大阪高等工業学校の醸造科に進学させています。この2代目が、やがて福山商店における新しい技術の導入と製品開発を進めることになります。甚三郎は、1914年(大正3年)8月4日、66歳で死去していますが、温譲質実の人、巴印醤油ひとすじの生涯でした。「才子才をたのみ、愚は愚を守る。見よ多年成業の後、才子才ならず、愚は愚ならず」を座右の銘とし、終生自らを「守愚」と称したといわれます。
  1887年(明治20年~)代当時の札幌の人口は、約26,000人であったといわれます。当時は、生活用品の大部分は本州地方からの移入に頼っていて、味噌醤油も主に津軽佐渡などから輸入されていたといわれます。福山商店の醤油醸造は、その諸味の発酵に約2年以上を要するため、実際に市場に売り出したのは、1894年(明治27年)過ぎからのようです。
  その後、札幌の醤油醸造所も次第に増えて、1899年(明治32年)3月「札幌醤油製造組合」が設立され、組合員数16名であったといわれます。1912年(明治45年)には29名に増えています。また味噌の方は少し遅れて、1908年(明治41年)に、会員数15名で「札幌味噌製造組合」が設立されています。

■ 2代目甚三郎~最新設備の第2工場を建設
  長男甚作(1883-1974)は、1883年(明治16年7月24日、福井県新保浦の生まれで、13歳の時に従弟の福山米太郎とともに進学のため、札幌に移住しています。その後札幌中学校(現南高校)から大阪高等工業学校(現大阪大)醸造科へ進み、日本最先端の醸造技術を学んでいます。1905年(明治38年)7月卒業、1年志願兵(一定の教育を受けた者の中から志願により、費用自弁で短期服役させ予備幹部に任用した、陸軍の兵役制度)の軍隊生活を送ります。1907年(明治40年)除隊後、父甚三郎を助けて「ヤマト福山商店」の醸造技術改良に取り組みます。
  甚作は、1914年(大正3年)8月父の死去により、「2代目甚三郎」を襲名します。2代目甚三郎は、折につけて野田・龍野・小豆島・半田・北陸地方などの名醸地を視察して、内地品を凌駕するような品質優良な醸造に努めています。
  当時は、内地味噌・醤油の移入は依然として多く、味噌は青森・新潟・長野から、醤油は野田のキッコーマンや銚子のヒゲタ、ヤマサなど道内向けが多かったようです。しかし、福山商店も次第に道内全域、特に室蘭線沿線・夕張・幌内の炭鉱地帯や上川・留萌地方に販路を拡大し、さらに樺太まで移出するようになっていきます。1997年(昭和43年)、旭川の千代田醸造とともに「北海道味噌株式会社」工場を設立して味噌製造の拡大をはかってています。
  さらに、1918年(大正7年)には、苗穂に第2工場を建設して経営規模の拡大をはかっています。この第2工場は、ボイラー・大豆蒸煮缶・小麦炒機・諸味撹拌装置・水圧機等の最新設備を備え、技術研究の試験室も設置した近代的な工場でした。
  1918年(大正7年)は、開道50周年の年で、北海道の人口217万人、札幌市の人口は95,000人でした。このころの醤油醸造所数は、札幌で約50、全道では、約260を数えるほどになっています。1926年(大正15年)11月、全国醤油醸造組合連合会が』結成され、その加盟組織として北海道味噌醤油醸造組合連合会が発足しています。
  やがて、第2工場の生産が本格化するにつれて、味噌醤油とも生産の主力はこちらに移り、第1工場は製品倉庫として転用されます。1935年(昭和10年)9月、第1工場の生産を停止して、生産設備のすべてを苗穂の新鋭工場に統合し、本店機構も移転します。そして、10月からは、駅前の第1工場の建物は、「株式会社福山倉庫」となります。
  第2工場のある苗穂地域は、水質もよく土地も広々とした環境で、敷地内に小公園を作り近隣住民にも開放して喜ばれたそうです。2代目甚三郎は消費者との結びつきをつよめるために、名入の醤油注ぎなどの記念品を配ったり、絵はがきや醤油の知識パンフレットを配布したりしたといわれます。また、昭和初年のころ、今日のPR誌、「家庭」と題した刊行物を5年余にわたって発行しています。当時としてはきわめて異色のものでした。また、第2工場で生産開始した「小判味噌」がヒット商品となります。こうした積極的な経営・販売により、順調に全道各地への売り上げを伸ばして、常に業界の北海道トップを占めてのいたようです。
  しかし、1935年(昭和10年)代後半は、日中戦争の拡大による物資の不足、物価統制の厳しい戦時体制に組み込まれていきます。新しく全国醤油工業組合連合会・全国味噌工業組合連合会の発足により、北海道味噌醤油工業組合連合会が組織され、福山甚三郎が理事長に就任。さらに北海道味噌醤油統制株式会社が設立されて、同じく社長に就任しています。こうして戦況が次第に厳しさを増していく戦時体制の中での努力を強いられたのでした。こうした統制時代は戦後もしばらく続き、1950年(昭和25年)ころになって、長い統制時代にピリオドが打たれ、次第に自由競争時代に移行したといわれます。
  この頃には、福山醸造も、生産体制を完全に回復して、新しい自由競争時代に向けて体力を整えていました。創業60周年を迎えた1951年(昭和26年)11月に、社名を「トモエ醤油株式会社」に変更して企業イメージを一新しています。

■ 2代目甚三郎の死去~3代目福山卓爾へ 
  北大農学部卒業後、旭川の合同酒精で修行していた甚三郎の長男卓爾(養子:米吉孫)は、1950年(昭和25年)に入社しており、新風を吹き込んでいました。そして、1955年(昭和30年)には、社名を「福山醸造株式会社」として、醤油メーカーだけではなく、味噌醤油兼業の総合メーカーとしてイメージを一新しました。
  1967年(昭和42年)には、福山卓爾専務が、すでに84歳の高齢に達していた社長の2代目甚三郎に代わって、一連の近代化事業をすすめ、1972年(昭和47年)には甚三郎が会長に退き、卓爾が社長に就任して、3代目社長の時代がスタートします。
  2代目福山甚三郎は、1974年(昭和49年)7月、91歳の長寿を全うして死去。大正初年から、戦時統制時代、戦後の混乱期を乗り切って道内業界のリーダーとして活躍した生涯でした。紺綬褒章・藍綬褒章・勲6等瑞宝章をはじめ、札幌市開拓功労者・札幌市産業経済功労者などの表彰を受け、没後には勲4等瑞宝章を贈られています。
  ゲーテの「継続は力なり」を座右の銘とし、「多事をなすの秘訣は即座に一事をなすにあり」を身上として万事に情熱を注いだ人生であったといわれます。この自分に対する厳しさとは対照的に、他人に対しては包容力のある春風駘蕩とした雰囲気を持っていたようです。NHKのラジオ体操の推進者として全国に知られ、放送が始まった1932年(昭和7年)以来、1日も欠かすことなく自ら先頭に立ってラジオ体操をつづけたそうです。その功により、1969年(昭和44年)にはNHK放送文化賞を受賞しています。
  新しい時代に向けて、積極的な販売市場の拡大をめざして、いろいろな新商品の開発に力を入れていきます。1975年(昭和50年)代に発売した「仕込みそ」「田舎みそカップ」が評判を博し、大きく需要を伸ばして、全農・ホクレンを通じて全道の農協へ販売し、さらに灘神戸生協へも販路を拡大して、高い人気を得たといわれます。近年の食品添加物に対する認識の高まり、本物・手作り志向など、消費者の意識の大きな変化に呼応した、北海道産大豆・赤穂の天塩を使用した高級品の「生仕込みそ」や加工味噌の「だし入りみそ」、本州向けの「好きですさっぽろみそ」など、又加工食品の新製品開発で、これからの市場競争に挑戦し続けています。醤油も、最高級のこいくち「一番しぼり」や、食塩を半減した「減塩しょうゆ」などを開発しています。
  福山卓爾社長は、1974年(昭和49年)2月「北海道味噌醤油工業協同組合」の理事長として厳しい業界をリードし、さらに1988年(昭和63年)5月には「全国味噌醤油工業協同組合連合会」の会長に就任し、全国の同業者の舵取り役を勤めました。
福山醸造は、1991年(平成3年)、創業100周年を迎え、醤油工場は、2004年(平成16年)11月、「札幌苗穂地区の工場・記念館群」として北海道遺産に認定されています。さらに2007年(平成19年)11月には、経済通産省より「札幌市の醤油醸造関連遺産」として近代化産業遺産群に認定されています。

■ 4代目福山浤社長~5代目福山耕司社長へ
  次いで、1995年(平成7年)2月、初代甚三郎の次男甚之助の孫福山浤(1944-2001)が4代目社長、2001年(平成13年)1月、3代目卓爾の長男福山耕司(1953- )が5代目社長となって、今日に至っています。この間、1991年(平成3年)より発売の「トモエ日高昆布しょうゆ」シリーズと「田舎みそカップ」が北海道内を中心に販売を拡大し、トモエブランドの地盤をかためたといわれます。
  また、食品安全・安心の品質マネジメントシステムの国際規格「ISO-9000」取得による優れた品質管理による顧客満足度向上に努め、北海道産の原料のこだわった新商品の開発が進められています。現社長のモットーは、「過去に縛られず、今の自分達に何ができるのかを考える。」としています。
  平取産の完熟トマトのフルーティーな味わいを生かした「平取トマト醤油」、由仁商業高校の生徒が考案した、栗山特産の健康玉ねぎにバジルなど3種類のハーブを加えた「愛郷ドレッシング」の商品化など、時代のニーズにあった新感覚の商品開発も進めています。

■ 福山醸造を記念するもの 

★旧福山商店第2工場(札幌市東区苗穂町2丁目4-1)   
★Café ロッソ(旧福山醸造店)
 明治40年代に福山甚三郎の息子米太郎によって建築された
といわれる。レンガ造り寄棟屋根の建物は,北3条通りを挟ん
で旧開拓使麦酒醸造所(サッポロファクトリー)北側にあります。
★福山醸造の工場見学
本社屋の歴史博物館ともいうべき「資料室」、トモエ醤油工場の製造工程やレンガ造りの醤油蔵などを見学できます。福山醸造の直売所もあります。(要予約、通年の月~金、苗穂駅徒歩10分)


 (福山醸造株式会社本社の資料室)

■ あとがき
  これまで、札幌の産業遺産関連では、「HOMAS」の原稿として、村橋久成の「開拓使麦酒醸造所→サッポロビ-ル博物館」や 黒沢酉蔵の「北海道製酪販売組合→雪印乳業株式会社」を取り上げて書いてきました。
  「福山醸造」については、今回の執筆にあたりまして、資料を読み進めて、創業以来の醤油・味噌ひとすじの歴史に心を打たれました。北海道の大事な食文化を担ってきたその歴史に感動しました。
  先日の本社訪問では、企画開発課の森 清史さんのご案内で、福山醸造の創業以来の歴史が凝縮された本社「資料室」や醤油工場の製造過程を見学させていただきました。札幌駅から約5キロという至近距離に明治からの貴重な歴史が生きていることを実感しました。(執筆担当:中垣 正史)


<主な参考文献及び参考資料>
□「概説 - 札幌のあゆみ」札幌市文化資料室 編集発行 2011年  □ 札幌時計台創建一三五周年記念誌「札幌ものがたり」 NPO法人さっぽろ時計台の会編集 時計台まつり実行委員会発行 2013年 
□ 「草創時代に於ける札幌の工業」 吉田 寧編集 札幌商工会議所発行 昭和11年 □ 「東区今昔」 札幌市東区役所総務部総務課発行 昭和54年 □ 創業百年記念誌「百年の歩み」 福山醸造株式会社企画部創業百年記念誌編集委員会編集 株式会社福山倉庫・福山醸造株式会社発行 平成3年  □「善念録」-福山甚之助を偲ぶ 福山醸造株式会社社長福山甚三郎編集発行 昭和33年  □ 「新札幌市史」第ニ巻通史二・第三巻通史三 札幌市教育委員会編集 札幌市発行  □ 「新聞と人名録にみる明治の札幌」 札幌市教育委員会文化資料室編集 北海道新聞社発行  □ 「開拓使時代」 さっぽろ文庫50 札幌市教育委員会編 北海道新聞社発行 □ 「北海道の歴史」下 近代・現代編 北海道新聞社発行 □ インターネット資料など
 





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