北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -30-

HOMAS(NO.74)2015. 3. 15発行
北海道の鉄道―開拓使時代からの変遷史をたどって
―札幌市苗穂地区の産業遺産群(その2) 「北海道鉄道技術館」(JR北海道苗穂工場)―

 ■ まえがき
  北海道の近代化は、1869年(明治2)7月、明治政府の開拓使設置、8月、蝦夷地を「北海道」と改称して、本格的な歴史を刻みはじめます。
松浦武四郎の原案は、アイヌの人々が自分たちの国を「カイ」と呼んだという説に基づいて「北加伊道」としましたが、最終的には、「西海道」(九州)、「南海道」(四国)、「東海道」(本州)などに合わせて、「北海道」とされたといわれます。
  初代判官島義勇、第2代判官岩村通俊の先見の明と、続く開拓次官(のち長官)黒田清隆(1840-1900)のすぐれた指導力、さらに、総顧問のホーレス・ケプロン(1804-1885)をはじめ、多くの米国の先進技術・教育の専門家が招かれて、各分野の開拓事業が進められました。ここまでは、本シリーズの枕詞のような毎回の「まえがき」です。)
  前回は、開拓使が、総顧問ホーレス・ケプロンの献策により、北海道工業発展のために、さまざまな官営工場を建設した、札幌の所謂「工業ゾーン」の歴史をたどりました。今日、札幌市東区苗穂に、北海道の産業遺産とされる「サッポロビール博物館」「福山醸造」「北海道鉄道技術館」(JR北海道苗穂工場)「雪印乳業資料館」などの工場・記念館群として残されています。
  今回は、この苗穂地区、「創成川イースト~苗穂」の工業ゾーンの一角にある「北海道鉄道技術館」(JR苗穂工場)にいたるまでの、北海道の「鉄道」の歴史を掘り起こしてみたいと思います。

■ 日本の「鉄道」の歴史のはじまり
  1872年(明治5)10月、日本最初の鉄道である新橋~横浜間が、イギリス人技師の指導のもとに建設・開業して、人々を驚かせました。後に、「汽笛一声新橋をはやわが汽車は離れたり~♪」と鉄道唱歌(明33、大和田建樹作詞・多梅雅作曲)にも歌われました。
  1874年(明治7)5月には、大阪~神戸間が開通し、続いて、大阪~京都間の建設も進められて、1877年(明10)2月、京都~(大阪)~神戸の全線を開通させています。関西では、その後も延伸が図られ逢坂山の鉄道トンネル(668,4メートル)が掘られて、琵琶湖東岸の長浜と北陸を結ぶ鉄道建設が進み、1883年(明17)4月には、~大津~金ケ崎(敦賀)まで開通させています。これらの工事は、イギリス人技師の指導を受けた井上勝(1843年―1910)が指導に当たっています。井上勝は、後に鉄道局長になり、わが国の「鉄道の父」と呼ばれた人です。

■ 北海道の「鉄道」の歴史のはじまり - ジョセフ・クロフォードの招聘
  明治政府は、1869年(明治2)7月「開拓使」を設置して、北海道開拓・近代化推進のために、いろいろな施策を推進します。1870年(明治3)5月開拓使次官に就任した黒田清隆(1840-1900)は、早速道内各地と樺太を視察して、外国人指導者・技術者の招聘を急務と考えて、翌年1月には留学生を伴ってアメリカに赴き、グラント大統領に会い、米農商務省長官ホーレス・ケプロン(1804~1885)の開拓使総顧問契約などを取り決めて帰国します。この年(1871)7月、ケプロンが、秘書エルドリッジ、科学技術師アンチセル、土木技師ワーフィールドを伴って来日、遅れて鉱山技師ライマン(1835-1920)、農業・牧畜のベーマー(1843-1896)、ダン(1848-1931)などが来日します。
  ケプロンは、北海道開拓の一環として、ライマン、助手マンローとともに地質調査を開始し、幌内川上流に有望な炭田を発見し、其の採掘と合わせて、その石炭輸送のための鉄道敷設を開拓使に進言しています。
  これが、北海道の「鉄道」の出発点となります。最初、この石炭輸送の鉄道建設については、ケプロンとライマンとでそのルートをめぐって見解がわかれていたといわれます。ケプロンは石炭の積み出し港として室蘭港を考えて、幌内~室蘭間の鉄道敷設を提唱しました。しかし、ライマンは、幌内~幌内太(現在の江別)に鉄道を敷設して、ここからは船に積み替えて石狩川を下り小樽港に運ぶ方が安上がりだと主張して、結局この案が採用されます。
  そして、1879年(明治12)2月、アメリカから鉄道技師ジョセフ・クロフォード(1842-1924)が招かれます。早速、クロフォード(当時36歳)は、アメリカに留学し土木を学んで帰国した松本荘一郎(1848-1903・後に鉄道局長)を副長としてルートの再調査をします。その結果、クロフォードは、舟運をやめて、幌内~札幌~小樽港までの鉄道敷設の方が、所要時間も早く効率もよいと提言します。そしてまず、一番の難所とされた張碓の掘削工事に着手し、わずか半年で完成させました。しかも工費は当初の見積り額を下回り、財政難に苦しむ開拓使を喜ばせたといわれます。
  こういう経緯を経て、小樽港に隣接する手宮~札幌~岩見沢~幌内(現在の三笠)の鉄道建設の正式ルートが決定したのでした。
  工事は、1880年(明治13)1月から始まり、難所を乗り越える掘削や木造の橋梁工事が大変であったようですが、11月18日に手宮~札幌間が開通。その後の工事も引き続き進められて、1882年(明治15)11月13日に、手宮~幌内間を全面開通させています。石炭輸送が目的の鉄道でしたが、もちろん旅客扱いも行われました。機関車や各車、貨車はすべてアメリカ製を輸入して、使用しています。この間、1882年(明治15)2月に「開拓使」は廃止されて、石炭とその輸送の鉄道関係の事業は、新設の「北海道庁」に引き継がれます。

■ 幹線鉄道の国有化
  明治政府は、当初から幹線鉄道については、建設から運営までのすべてを政府が行う方針(官設・官営)で進めていました。しかし資金不足のため、明治10年代になると、民間資本による鉄道建設の出願が相次ぎ、そこで開業25年後に政府が買い上げるという条件で、民間資本による幹線鉄道の建設を認めることになったといわれます。こうして、1881年(明治14)8月に、日本最初の民間資本による鉄道会社「日本鉄道」(発起人代表右大臣岩倉具視)が誕生します。「日本鉄道」の創立以降、各地に私設鉄道が誕生し、日本の幹線鉄道の建設は私設鉄道がリードする形で進められて行きます。
  まず、「日本鉄道」は、早速東京と青森を結ぶことを計画し、工区を五区に分けて建設を進めますが、資金面・建設技術面でも困難に直面します。結局、政府の援助を受けて、資材・機材の購入、用地買収などをすることとなり、「鉄道局」が測量から工事全般を担当したといわれます。1882年(明治15) 東京~高崎・前橋間の工事が始まり、1884年(明治17年)5月に開通させています。以後、幹線ルート決定の曲折を経て、「鉄道局」は、高崎~横川~関山~直江津を開通させます。また東京と京阪神を結ぶルートも曲折を経て中山道ルートから東海道ルートに決定、東と西から各工区の延伸を重ねて、1889年(明治22)4月 新橋~神戸間を全面開通させ、さらに、1891年(明治24)9月に東京上野~青森間の全線を開通させます。こうして、日本の幹線ルートが完成したのでした。開業当初、日本鉄道の経営は極めて順調で、私鉄ブームとなり、多くの鉄道会社ができて、全国的に鉄道の延伸が進められていきます。
  しかし、当時の鉄道局長の井上勝は、国家の動脈としての幹線鉄道は、私設鉄道にまかせるべきではなく、あくまで官設・官営で行くべきだと主張していたといわれます。一部では鉄道の国有化に反対する意見も出されていましたが、軍部からの要求もあり、1904年(明37)に勃発した日露戦争時に、本州各地から広島宇部港への兵員・軍需物資輸送の必要が生じた折、官設鉄道と私営鉄道の路線の車両の運用や運賃面などで多くの不都合が生じて、鉄道の国有化論が急速に高まったといわれます。
こうして結局、1906年(明39)3月に鉄道国有法が公布されて、同年10月から全国17の私設鉄道が政府に買収されて官設鉄道に編入されていきます。この私設鉄道の国有化により、私設鉄道と官設鉄道の比率は逆転することとなり、幹線は「官営鉄道」が、地域内の路線は「私設鉄道」が受け持つという役割分担が定着することになっていきます。

■ 鉄道の国有化による道内の路線拡大
  北海道の鉄道は、1882年(明治15)11月開通の「幌内鉄道」(手宮~幌内)が、1882年(明治15)2月の「開拓使」廃止により、その事業は、新設の「北海道庁」に引き継がれましたが、経営は低迷していたといわれます。その後、1886年(明21)4月「北有社」が幌内鉄道の運行を行う「官有民営」となります。「北有社」は、ある程度の収益をあげるところまでは回復させたものの、資本力の乏しさから、冬期間運休などの問題も抱えたままで、目立った成果は上がらなかったようです。
  北海道庁理事官の堀基(844-1912)が、中央財界の大資本を集めて、1889年(明治22)12月、鉄道会社 「北海道炭礦鉄道」(北炭) を設立し、営業不振の幌内鉄道の譲渡をうける形でスタートします。そしてまず、1881年(明24)歌志内、翌年(明25)空知太、岩見沢~室蘭(室蘭本線)を開通させます。こうして空知地方の炭鉱からの石炭を、小樽・室蘭の2港から積み出す体制が出来上がり、石炭産出量は大幅に増えて好調な業績を挙げていきます。後の函館本線・石勝線などに該当する路線の敷設も進めていきますが、これらの路線はおもに、沿線の炭鉱と石炭と積出港を結ぶ役目を担ったのでした。
  1896年(明29)5月公布の「北海道鉄道敷設法」により、北海道庁が「鉄道部」をたちあげて、「北海道官設鉄道」の敷設を進めていきます。1898年(明31)7月、空地太(現砂川市)~旭川まで(上川線)の延伸(上川線)をはじめとして、狩勝峠を越える「十勝線」、「手塩線」、「釧路線」、「富良野線」、「根室本線」、「宗谷本線」などを開通させていったようです。とりわけ、1907年(明40)9月、難工事の狩勝トンネル(全長953m、約7年間の工事)の開通によって旭川~釧路間を全通させたことが、当時としては一大事業であったようです。
 さて、函館~小樽の路線は、本州と北海道とを結ぶルートとして早くからその必要性が認められていました。1899年(明32)「函樽鉄道会社」が設立(翌年「北海道鉄道」に改名)されますが、事業は資金的にも苦しく、山岳区間の工事、長万部~小樽の長いトンネルを含む難工事のため送れます。それでも1904年(明39)10月には、函館から小樽への全線が開通します。これにより、東北本線と青森~函館間の連絡船航路を合わせて、東京から北海道中央部までの鉄道による連絡が完成しました。

■ 日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化
  1872年(明5)の鉄道開業以来、政府官庁による経営を軸としてきた国有鉄道事業を、独立採算性の公共事業として継承する事業体として、「日本国有鉄道」が、1949年(昭24)に発足しますが、国鉄の経営は悪化する一方で、労働争議・人員整理などが続いていきます。
  1987年(昭62)、「日本国有鉄道」(国鉄)は、莫大な負債処理を抱えたままで、分割民営化を図り115年の「官営」国鉄の歴史に幕を下ろすことになりました。この国鉄大改革により「民営」となり、JR北海道(札幌)、JR東日本(東京)、JR東海(名古屋)、JR西日本(大阪)、JR四国(高松)、JR九州(福岡)の6社に分割されました。
  1872年(明5)開業以来の国鉄大改革により、1987年(昭62)4月、民営化した「JR北海道」(北海道旅客鉄道株式会社)は、6社の中でもっとも厳しい経営状況を抱えてスタートしたといわれます。赤字路線の廃止・人員整理などの苦しい経営を迫られていますが、「JRタワー」駅ビル商店街などの多角的利用を展開しています。1988年(昭63)3月には、30年近くに及ぶ歳月をかけた一大事業「青函トンネル」(53.85km)が開通して、本州と北海道が地続きとなりました。さらに、「新幹線」の新函館までの開通・札幌までの延伸などの明るい展望が開けてきました。

■ JR北海道 苗穂工場 と「 鉄道技術館 」の公開
  さていよいよ、札幌市苗穂地区の一角にある北海道産業遺産のひとつ「JR北海道苗穂工場」(現札幌市東区北5条東13丁目)と同工場内にある「北海道鉄道技術館」につて、北海道の「鉄道」の歴史を考えてみたいと思います。
  1909年(明42)、「JR北海道苗穂工場」は、当時の鉄道院北海道鉄道管理局の札幌工場として設立されます。19万6000平方メートルという広大な敷地面積を占めています。<5頁「苗穂工場平面図」参照>旧国鉄時代から、道内の鉄道の各路線延伸などの歴史を担ってきた重要な工場です。
  いろいろなメンテナンスや新車両の研究・除雪車の改良、新型電車や振子気動車の製造・改造を手掛け、青函トンネル用の「トレインオントレイン」などの開発も、すべてこの苗穂工場を中心として進められています。
  さらにこの苗穂工場で開発されたものとして見落とせないものに、線路と道路両用のDMV(デュアル・モード・ヴィークル)があります。これまでに7両のテスト車両が造られているそうです。中古のマイクロバスを改造した2004年の第1号誕生(発案者は柿沼博彦・後のJR北海道会長)から改善を重ねて、後にトヨタの協力も得てトラックのシャーシーを使うことにより、総許容加重を増やせて定員増も可能となった、ロングボディーの新車両を2011年に完成させています。今後、ローカル線の経営改善への期待が高まっていると言われます。
  JR北海道では、五稜郭車両所と釧路運輸車両所も工場機能を持っていますが、北海道の全車両約1,100両のうち約750両を、この苗穂工場が受け持っているといわれます。鉄道のメンテナンス工場は、量産品ではなく、自動化されたライン方式も難しく、マンパワーに頼る面が多い大変さがあるといわれます。
  この工場内には、産業遺産とされる「鉄道技術館」があります。この建物は、JR北海道苗穂工場が、1909年(明42)12月スタートした翌年に建設されて、当時は用品倉庫として使用されていたものです。この明治時代の面影を残しているレンガ造り建物は、苗穂工場で現存する最古の建物とされます。この明治時代の建造物が産業遺産の指定を受けたわけです。
  この「鉄道技術館」には、鉄道開設以来の歴史的な資料や各種技術の発展がわかる実物の機械、屋外の車両なども展示されており、北海道の鉄道文化が凝縮されていると言ってよいでしょう。

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         ― 「鉄道ジャーナルNo.559 2013,5 」より転載 ― 


■ 北海道の鉄道の歴史を記念するもの
  総合的なものとしては、1971年(昭46)4月に、北海道の開道100年を記念して開設され、2015年〈平27〉4月にリニューアルオープンした「北海道博物館」(旧開拓記念館)<札幌市厚別区小野幌53-2)がありますが、北海道の鉄道の歴史を伝えるものとしては次のような所をおすすめします。
★みどころ① 新しく、2007年(平19)に統合開設された「小樽市総合博物館」(旧鉄道記念館)<小樽市手宮1-3-6)があります。1880年(明治13)11月に手宮~札幌間が開通した始発駅跡地です。北海道の鉄道の出発点、旧手宮駅の線路、車両などが見られます。
★みどころ② 1987年(昭62)に開設された「三笠鉄道記念館」<三笠市幌内町2-287>があります。1882年(明治15)11月、手宮~札幌~幌内間の「幌内線」が全面開通した終着駅「旧幌内駅」の跡地に建てられています。ジョセフ・クロフォードの銅像もあります。また、「クロフォード公園」<三笠市本町971-1>には、三笠駅の跨線橋とホーム、1990年(平成2年) に復元された旧幌内線三笠駅(幌内太駅)駅舎もあります。三笠鉄道記念館の分館的位置にある鉄道公園施設で、北海道で使用された 鉄道車両なども保存展示されています。

■ あとがき
  これまで、札幌の産業遺産関連では、「HOMAS」の原稿として、村橋久成の「開拓使麦酒醸造所→サッポロビ-ル博物館」や 黒沢酉蔵の「北海道製酪販売組合→雪印乳業株式会社」、「福山醸造」などを取り上げて書いてきました。今回は、開拓使時代に建設された北海道鉄道のその後の歴史をたどり、JR北海道苗穂工場が担ってきた重要な役割を考えたいと思います。その中で、北海道遺産の一つとされている「北海道鉄道技術館」に最後のスポットを当てて見ました。
  今回の執筆にあたり資料を読み進めて、現地リサーチとして、まず、北海道鉄道の歴史の出発点である「小樽市総合博物館」(旧交通記念館)(小樽市手宮1丁目3-6) へ行って来ました。もう何度目かの視察ですが、正面のクロフォードの銅像を改めて仰ぎ見てきました。ちょうど、「小樽貴賓館」(旧青山別邸)(小樽市祝津3丁目63) のアジサイも満開の美しい季節でした。
  また、JR北海道苗穂工場内の「北海道鉄道技術館」(札幌市東区北5条東13丁目) にも行ってきましたが、毎月第2、第4土曜日の午後(13:30~16:00)だけの限定一般公開 (無料) なので、やっと何とか都合をつけて行ってきました。屋外の車両展示と展示館(1階・2階 )からなっています。今回はリサーチなので説明員のお話をしっかり聞いてきました。入口前庭に可憐な薄紫の花がたくさん咲いていました。「亜麻」の花であることを知り、また、屯田兵村から始まった大麻(麻→亜麻) 栽培、北海道の亜麻栽培、麻糸紡績・麻織物製造の歴史が思い起こされました。
この現地リサーチは、いつも新発見があって面白いものだと思っています。
 (執筆担当:中垣 正史)


<主な参考文献及び参考資料>
□「北海道鉄道百年史」上(昭和51年発行)・中(昭和55年発行)・下(昭和56年発行) 日本国有鉄道北海道総局 編集発行
□ 歴史群像シリーズ [ 図 説 国鉄全史 」 学習研究社発行 2004年
□ 鉄道路線変せん史探訪Ⅴ「北海道の鉄道」守田久盛・坂本真一 著 吉井書店 発行 1992年 □ 「JR北海道20年のあゆみ」 JR北海道20年史編集委員会編集 北海道旅客鉄道株式会社 発行 2007年
□ 札幌時計台創建一三五周年記念誌 「札幌ものがたり」 NPO法人さっぽろ時計台の会編集 時計台まつり実行委員会発行 2013年
□ 「開拓使時代」 さっぽろ文庫50 札幌市教育委員会編 北海道新聞社発行
□ 「鉄道ジャーナル」(特集)-JR北海道とJR九州- 鉄道ジャーナル社 No.559 2013年5月号
□ 「 鉄道と歩んだ街小樽―ここから始まった北海道の鉄道史 」 小樽市総合博物館公式ガイドブック 2013年5月1日発行
□ 「重要文化財 旧手宮鉄道施設」小樽市総合博物館 小樽市総合博物館友の会発行 2014年8月 □ インターネット資料など




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