北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -3-

HOMAS<NO45>(2005,7,26発行)
天才級の人材を輩出させた“ウイリアム・ホイーラー”
  -札幌時計台設計者・優秀な土木技師の札幌農学校第2代教頭-
 

  明治9年(1876)7月31日、開拓使長官黒田清隆の招きにより、マサチューセッツ州立農科大学長ウイリアム・S・クラーク(1826-1886当時50歳)は、優秀な教え子のウイリアム・ホイーラー(1851-1932、当時25歳)、デヴィド・P・ペンハロー(1851-1932当時22歳)とともに来札しました。クラーク博士が、札幌農学校(明治9年8月14日開校)の初代教頭(学長)として着任し、翌10年4月16日離札までの約8ヶ月間、すぐれた経営とキリスト教精神による教育指導を行なった功績はよく知られています。そして、「ボーイズビーアンビシャス」に象徴される高邁なクラーク精神は今日でもこの北の大地にしっかりと根付いているのです。しかし、クラーク博士とともに来札した優秀な教え子たち、第2代教頭となったウイリアム・ホイーラー(滞在約3年)、そして第3代教頭となったデヴィド・P・ペンハロー(滞在約4年間)のことや、さらに、一足おくれて明治10年(1877)2月来札し、のちに第4代教頭となったウイリアム・P・ブルックス(当時26歳)(滞在10年余)などのことについては、あまり広く知られていないと思います。
  それで、今回は、あのクラーク博士の大きな存在の陰にかくれがちな、ウイリアム・ホイーラーの北海道近代化における業績について取り上げてみたいと思います。・・・札幌農学校2期生から、広井勇、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、南鷹次郎、佐久間信恭らの「天才級」の人材を多く輩出したのは、実にその指導者であった青年教師ウイリアム・ホイーラーの“天才性”とその人格的魅力によるものである。・・・と「お雇いアメリカ人青年教師ウイリアム・ホイーラー」の著者、髙橋哲朗氏は力説されています。
 ホイーラーは、1851年、マサチューセッツ州コンコードの生まれ。地元コンコードハイスクールに無試験で入学するほどの秀才で、高校も成績優秀でした。1867年、16歳でアマーストに創設されたマサチューセッツ州立農科大学(1867年10月2日開校、初代学長ウィリアム・S・クラーク)に入学します。彼は、1期生27名中最年少の16歳。学生寮での共同生活の中で、学長クラークの薫陶を受けて、実践的学問観や「自立の人」を尊ぶ人生観を身につけたといわれます。
  1871年、27名中、2番の成績で卒業します。卒業後の約5年間、ホイーラーは、優秀な土木技術師として、鉄道建設の設計施工の仕事、上水道敷設のためのサンディ・ポンドからの人口水路の設計施工、コンコード川、チャールズ川のアーチ型の石橋など、マ州内の多くの公益事業の設計や施工を手がけ、その成功によって才能が高く評価されていました。
  そして、明治9年(1876)7月31日、クラーク博士・ホイーラー・ペンハローの3人が札幌入りした時、ホイーラーは25歳でした。彼には婚約者がいましたが、家族の賛成を得て日本行きを決心しました。また、日本赴任に際して、彼が崇拝していたコンコードの哲人ラルフ・エマーソンの推薦文も得て着任したのでした。
 ホイーラーの札幌滞在は、実に多忙をきわめたものでした。まず、9月1日札幌に気象観測所設置。後の石狩川沿岸・幌向・対雁・茨戸石狩(11年8月)・留萌(11年9月)・根室(12年7月)などの観測所設置もすべてホイーラーの勧告によるものといわれます。クラーク教頭と馬に乗ってコネチカット川によく似た石狩川や琴似川・篠路川・茨戸川の河川調査など道内各地へ調査出張に出かけています。また、開拓使の依頼により札幌~小樽間・札幌~室蘭間などの実地測量と設計に基づき鉄道敷設を進言したりしています。彼が手がけた土木建築事業は少なくありません。
  クラーク博士の明治10年(1877)4月16日離札後、ホイーラーが、第2教頭として札幌農学校運営の実績や前途有益な青年たちにあたえた人格的・教育的な感化力はクラークに優るとも劣らないものでありました。学生の信望も厚くニックネームは山羊先生(ミスターゴート)と呼ばれていました。農学校の書庫・講堂・温室などの諸施設の増設。特に、アメリカ開拓時代をしのばせるコロニアル様式の「演武場」(1878年(明11)9月完成・10月16日落成式)もホイーラーの前身)。明治14年(1881)8月12日からときを刻み始めて今日に至っています。
  また、牛馬や牧草・農機具を収容できる三層づくりの巨大な「モデル・バーン(模範畜舎)」の設計・施工者もホイーラーです。「時計台」・「モデル・バーン(模範畜舎)」(北大構内)はいずれも、今日国指定重要文化財として保存されています。・・・明治11年(1873)3月一時帰国、コンコードにて7月17日婚約者ファニーと結婚、8月妻ファニーと再来日。・・・札幌農学校のカリキュラムは、初代教頭クラークとホイーラーによって編成され、マ州立農科大学の知育・徳育・体育を骨格とした前人教育が実践されたといわれます。こうして、クラークによってその基礎が築かれた札幌農学校はここにほぼ体裁を整えて、日本の代表的な高等教育機関の一つに成長したのです。
  約3年半滞在後、ホイーラー(28歳)は、明治12年妻ファニーとともに米国へ帰国しました。日本からの長旅の末明治13年(1880)3月、帰国したホイーラー夫妻は、郷里コンコードで盛大な帰国歓迎式典も開催され、地元紙「コンコード・ジャーナル」では、郷土の誇り「英雄」扱いでありました。帰国後、ホイーラーは、専門の仕事のほか、マ州立農科大学の運営理事、コンコードの教育委員長・図書館協会会長などの要職をいずれも無報酬で務めています。彼はコンコードの「第1級市民」(foremost citizen)と評されました。ボストンに土木工学の建設事務所を開設。東部諸州の上下水道工事の権威者としてめざましい活動をしています。
  ホイーラーは、コンコードの二階建ての自宅を札幌時代(3年半)の思い出に因んでMARUYAMA-KAN(円山館)(The Round Hill House)と名付け、日本からの教え子たちの訪問を心から歓迎したといわれます。その後、大正13年(1924)73歳の時、日本政府から「勲五等朝日章」(皇太子ご成婚記念)を授与されたといわれます。老後の彼は、1932年(昭和7年)7月1日80歳で逝去するまでこの地に住んでいます。夫人は子どももなく、夫の死後もこの邸宅に住んで、1942年(昭和17年)4月18日88歳で逝去しました。夫妻のお墓はコンコード郊外の高台スリーピーホロ-墓地にあります。現在、マサチューセッツ州立大学アマースト校キャンパスには、「学生寮」(ホイーラーハウス)(1960年・昭和35年10月完成)があります。

(資料)
札幌農学校の基礎を築いた ウイリアム・S・クラーク(1826~1886)を記念するもの<br>
 ①「クラーク胸像(北大構内)」(札幌市北区北9条西7丁目)
   ウイリアム・S・クラーク博士(1826-1886)は、開拓使長官黒田清隆の招きにより、明治9年(1876)6月、ペンハロー、ホイーラーの二教師とともに来日、7月31日(50歳の誕生日)、札幌へ赴任しました。
  翌年4月までの8ヶ月半北海道開拓の人材育成のために開設された札幌農学校初代教頭として、経営・指導に尽力、そのキリスト教精神による人間教育は多くの学生に深い感銘を与えました。
   このクラーク像は、大正15年(1926)、北大創基50周年記念事業の一環として寄付金により建立。田嶼碩郎(たじませきろう)作。
   後に「小学国語読本」(昭8~昭13)にも載り、彼の言葉とともに全国的に有名になったのです。太平洋戦争中、金属献納で鋳潰されましたが、昭和23年再建。また、昭和34年(1969)、「クラーク会館」が北大創基80周年(1966)事業の一環として建設されました。わが国の国立大学では最初の大規模な学生会館。  杉野目学長(当時)の強力な主導により実現したといわれます。
 ②「クラーク記念碑(島松駅逓)」(北広島市島松1番地)
   明治10年(1877)4月16日、学生・教授たち全員が見送る中、島松駅逓で、“Boys be ambitious!”の言葉を残して、馬にムチを当てて走り去りましたが、その高邁なクラーク精神はゆるぎないフロンティアスピリッツとして、この北の大地にしっかりと根付いています。
   この地を記念して、昭和25年(1950)11月、「クラーク奨学会(発起人代表宮部金吾)」らにより、この「クラーク記念碑」が建てられました。この碑は山内壮夫によって設計製作されたもの。塔の中央部には、クラークの顔部分の彫刻と、「BOYS BE AMBITIOUS」の英文字があり、さらにその下に「青年よ大志を懐け」と彫られています。
 ③「丘の上クラーク像(羊ヶ丘展望台)」(札幌市豊平区羊ヶ丘1番地)
   昭和48年(1973)、観光団体北大構内立入り禁止により、札幌観光協会が中心となって、北大創基100年・アメリカ建国200年・クラーク博士生誕150年記念として建立したもの。彫刻家・坂 担道氏の制作によるもので、さっぽろ羊ヶ丘展望台の「丘の上のクラーク」として昭和51年(1976年)4月16日(クラーク博士離道の日)に除幕式が行われました。



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