HOMAS <NO63 2011,12,101 発行>
清廉無私の官僚~開拓使大判官松本十郎の生涯と業績
-アイヌからも慕われた「厚司判官」・引締め政策により開拓使財政再建に成功ー
■まえがき
北海道が、明治政府の「開拓使」<開拓政策を推進する地方行政機関として東京芝増上寺境内におかれた>の設置(1869年<明治2年>7月)後、初代判官島義勇(1822-1874)、第2代判官岩村通俊(1840-1915)の先見の明、続く黒田清隆(1840-1900)開拓使次官(のち長官)の指導力と、黒田の招きのよる多くの米国の先進技術・教育の専門家たち、開拓使顧問のホーレス・ケプロン(1804-1885)、鉱山・地質測量のベンジャミン・S・ライマン(1835-1920)、農業牧畜のエドウィン・ダン(1858-1931)、高等教育のウィリアム・S・クラーク(1826-1886)、ウィリアム・ホィーラー(1851-1932)、デヴィド・P・ペンハロー(1854-1910)・・・などのすぐれた指導力により、各分野の開拓事業が進められてきたことは、周知のことです。
黒田清隆を中心とする「薩摩閥」の開拓使人事は有名なことです。事実、彼は、北海道の開拓・近代化のために、幅広く有為の人材を採用しています。その推進力となった開拓使(明治2年7月~明治15年)時代の指導者の多くは、薩摩藩の出身でした・・・黒田清隆、村橋久成、永山武四郎、時任為基、調所廣丈、湯地定基、岡田安賢、河島醇、山之内一次・・・。
しかし、黒田はまた、1868年(慶応4年)1月3日~6日鳥羽伏見の戦いにはじまる「戊辰戦争」~1869年(明治2年)5月18日の「函館戦争」終結にいたるまで、敵対していた人物も多く採用しています。後に、黒田の「知恵袋」といわれた榎本武揚をはじめ、松平太郎・荒井郁之助・永井尚志・大鳥圭介など、そして、庄内藩の松本十郎(1839-1916)もその一人でした。
今回は、北海道の開拓使事業の逼迫した財政再建に大き大きく貢献した人物、松本十郎(1839-1916)の生涯と業績をたどってみたいと思います。彼は、庄内藩士の子として生まれ、藩校致道館に学び、頭角をあらわして、江戸の昌平黌にも通っています。1863年(文久3年)江戸幕府の命を受けて、父戸田文之助とともに、蝦夷地警備のため、天塩の苫前・石狩の浜益に渡っています。この地で地元のアイヌの生活を見聞します。庄内藩は、戊辰戦争で敗北するも恩赦をうけ、1869年(明治2年)、彼は黒田清隆に認められて開拓判官に推薦されて根室国に赴任します。ここではアイヌからも「厚司判官」と慕われています。1873年(明治6年)黒田の命を受けて、大判官として札幌の本庁舎で、巨額の赤字を抱えていた開拓使の行政改革と緊縮財政をすすめたのでした。ところが、1875年(明治8年)7月、黒田の樺太アイヌの北海道への強制移住計画に憤慨して、辞表を提出し故郷鶴岡に帰郷します。その後は、再び仕官することなく、一介の農民として生涯を送ったのでした。
■松本十郎の生い立ち
松本十郎は、1839年(天保10年)8月18日。庄内藩鶴ヶ岡城下新屋敷(現山形県鶴岡市若葉町)に、近習頭取戸田文之助、母満の二男二女の長男として生まれ、幼名は重松、長じて惣十郎直温と名乗っています。幼児期は体が弱く、12歳の頃から田宮流居合を修練し、武技は彼のもっとも得意とするところで、剣をもって身をたてようと考えるほどでした。15歳のころから藩校「致道館」に学び、他の子弟に比べてかなりの晩学でしたが、すぐに抜群の成績で頭角をあらわしたといわれます。藩命により、江戸へ上って市中警護の仕事に携わりながら、暇を見ては幕府の昌平黌に通い識見を深めています。1859年(安静6年)、19歳の時、縁あって黒谷市兵衛時敏の長女直(17歳)と結婚しています。
ロシアの南下が激しくなり、幕府は1854年(安政元年)蝦夷地を松前藩より引き上げ、箱館奉行を置いて、沿岸警備を厳重にします。はじめ仙台など5藩が分担しますが、後に庄内藩も加えられます。 1863年(文久3年)5月、松本は、幕府の命を受けた父戸田文之助に従って、蝦夷地の警備と開拓のため、百数十名の藩士・農夫・職人らとともに赴任し、1865年(慶応元年)6月まで、天塩の苫前・翌年石狩の浜益の経営に当たっています。この地で地元のアイヌの生活を見聞することになります。
戊辰戦争(1868年1月~1869年5月)では、松本は、庄内藩2番大隊幕僚として活躍。奥羽軍に与して戦うも敗北。降伏後、松本は黒田清隆らの新政府要人と会い、藩の戦後について運動し恩赦を受けますが、藩命で、京都に上ることになったとき、朝敵藩士の身分を隠すため、「戸田惣十郎」から「松本十郎」と名を変えています。この時から、松本十郎になります。
■開拓使出仕―「アツシ判官」
1869年(明治2年)7月、「開拓使」設置により開拓使長官に東久世通禧長官(公卿)をいただき、肥前の島義勇、土佐の岩村通俊、越後の竹田信順、蝦夷通として知られた松浦武四郎などが判官として名を連ねていますが、官軍の黒田清隆は、ただ一人賊軍の庄内藩から、松本十郎の才能を認めて判官に推薦したのです。また、8月15日、開拓使は、松浦武四郎の原案をもとに蝦夷地を「北海道」と改称して11ヵ国86群を置き、北蝦夷地の書字を「樺太」に統一します。
こうして新政府の「官員」となった松本は、ザンギリ頭となり、属僚130名を連れて「北海道」根室国に赴任します(この時30歳)。同年9月21日、
イギリス船テールス号が、開拓三神を奉じた東久世長官、島義勇主席判官以下の官員、米や資材、さらに移民約200名を乗せて品川沖を出港します。25日函館に入港して、30日函館の「開拓使出張所」を開設します。(この日以降、「箱館」が「函館」に改められます)函館には長官と岩村通俊がとどまり、島義勇判官は札幌建設のため陸路出発することとなります。
テールス号は、29日に函館を出港して東進、10月2日根室港に着き、松本と医師その他の官員、移民、米や資材を下ろし、さらに竹田信順判官、移民をのせてオホーツク海を北上して宗谷に向かっています。
松本が着任した当時の根室はほとんど手つかずの未開の地でしたが、10月9日「開拓使根室出張所」を開設。まず漁場を独占していた請負人制度を廃し「漁場持」と変更、誰でも自由に活動できるようにします<全面的に請負人制度を廃したのは明治9年9月>。さらに税制を改め、出納を厳正にし、学校、病院、牢獄を建てるなどして、行政の実績をあげています。翌明治3年、根室は東京府に移管ということになり、松本は憤慨して辞表を提出しますが、黒田の尽力により移管中止となり松本は根室に戻ります。松本の「沈勇にして怜悧」な仕事ぶり・人格は、1870年(明治3年)根室一帯の海岸線測量に協力していたイギリス軍艦の海軍士官によって広く海外にまで伝えられたそうです。
松本は当時、アイヌの「アツシ」と呼ばれる羽織を着用して、地元のアイヌの人々とも分け隔てなく接し、また無私な性格で、自己の蓄財を考えることなく、私財を惜しみなく地元の発展に寄付したといわれます。自費で各地に出張して民情を探って施策に反映させています。ここでは、アイヌからも慕われて「アツシ判官」と呼ばれています。1872年(明治5年)には釧路・北見・千島が担当地域に加えられたので、松本は、これらの地域も視察して回り、住民の生活安定に努めたのでした。
■北海道庁勤務時代―「大判官」
このような実績が認められて、1873年(明治6年)2月黒田開拓次官の命を受けて、7月大判官として札幌本庁舎在勤となります(この時33歳)。北海道開拓の全権を任された彼は、まず赤字体質となっていた事業全体を見直し、開拓使の官員を整理して綱紀を引き締め、帳簿を点検して徹底的に冗費を省き、前任者岩村通俊時代の役人700人を300人までに削減したといわれます。この大胆な行政改革と緊縮財政をすすめた結果、わずか2年で、巨額の累積赤字の解消に成功します。
しかしこれは役所のことであって、札幌は一時期不況に陥り、離道する者が続出しました。岩村の好況時には960人であった人口が、わずか396人にまで減少しています。財政難に加えて、1874年(明治6年)2月には樽前山が噴火するという天災も重なり、松本の評判は今ひとつでした。
松本の健全財政政策は徐々に成果をあげ、その声望も次第に高まっていきます。ケプロンの助言もあり、逃亡した者も戻れば、一時の留守扱いとして認め、家作料の80パーセントを割り引きし、残りは月割りにして長期返済とするなどの対策を講じた結果、1874年(明治7年)末の人口は2,162人に増加します。彼は、民心をつかむため、役所の周囲の土塁、豊平川の堤防、白石移民小屋建設などの公共事業を発注したり、また農林漁業の保護政策の改善、農産物の流通対策、稲作の奨励など、殖産興業の基盤整備に努力しています。
松本は、毎日朝六時に登庁して、てきぱきと書類を点検し決裁を終えると、若い者の仕事の達成に手を貸し、ことに法律書にはよく目を通すようにすすめ、自分も法規をよく読んで勉強したといわれます。だれにでも「さん」をつけて呼び、決して呼び捨てにすることがなかったといいます。官吏が呼び捨てにして給仕の少年を使っているのをたしなめたこともあったようです。異名通り「アツシ」を羽織って、毎日管内を巡回したといわれます。大判官という立場にありながら、誰にでも道を譲り、また、役人の出張といえば、役得と喜ばれたのに、出張旅費を節約して受け取らなかったといわれます。苫小牧出張は5日の正当旅費を請求できる時代に、松本は握り飯を腰につけて朝早く馬で出発し、夕刻には帰札するという率先垂範ぶりであったそうです。
こうした中で、岩村判官によって起工式(明5,7)を挙げた白亜の開拓使札幌本庁本庁舎の建築が1873年(明治6年)10月29日に完成しています。(総工費32,000余円。翌年1月開庁式。)
松本は、自宅では小使い一人・書生一人をおくだけの清廉潔白・簡素なせいかつでした。寸暇を惜しんで官邸(現在の札幌テレビ塔に近い南大通)のまわりを耕作し、開拓使顧問のケプロンもその作物の出来栄えに感心したといわれます。また草花を愛して、庭に松葉牡丹やアメリカ産の花々などを植えて、咲き乱れる多くの美しい花を女性や子供たちに分け与え、人々に「御花屋敷」・「松本判官のお花畑」と呼ばれたそうです。<大通の花壇の原点はここにあるとも言われています。>
1975年(明治8年)、大判官松本の進言を受けて、黒田開拓使長官は、札幌の南1条から北側西8丁目以西の地域を開拓して養蚕業を奨励することを決めます。松本は、以前広大な桑畑の開墾に成功していた山形の庄内藩士に桑畑の造成を要請します。156名の庄内藩士が来道し、6月4日から9月15日までの間、約21万坪の土地を開墾し、桑苗4万株を植えています。その後、藩士は山形へ帰り、新たに養蚕を志す人たちが移り住みます。(後に、この地域は、「桑園」と呼ばれます。)
1875年(明治8年)、千島樺太交換条約により、樺太はロシア領となります。明治政府は10月21日、樺太アイヌ854名をひとまず宗谷に移住させますが、黒田は、札幌近郊の対雁(ついしかり)に移住させて開拓農業に従事させようとします。狩猟漁労を生業とするアイヌの人たちはこの計画に同意できないと訴えます。現地担当者の説得とアイヌの陳情が翌年(明9)に入っても続きます。このような宗谷の樺太アイヌ代表達の嘆願を受けて、松本は明治8年から9年にかけて、樺太アイヌと黒田長官との間に入って何とか事態を収拾しようと努めます。樺太アイヌの代表が札幌本庁を訪れたり、松本が宗谷に行ってアイヌの説得を試みたりします。アイヌの人たちをぜひこのまま宗谷においてほしいと黒田に強く訴えます。黒田と松本の亀裂は、榎本武揚などの土地漁りや各地の土地払い下げは役人の汚職まがいの許しがたい行為だとする考えとあわせて、樺太アイヌの石狩強制移住問題により、決定的なものとなっていきます。
■石狩十勝両河紀行―最後の北海道内陸踏破行
そして、松本は1875年(明治8年)6月8日~7月12日の間、「石狩十勝両河紀行」という、石狩川・十勝川流域踏破の旅にでます。行政視察の名目ですが、通訳の亀石熊五郎とアイヌ人夫以外は、役人の随行は誰もいなくて、大判官の出張としては異例のことでした。まず馬で郊外の雁木村に至り、食料・薬品・毛布・天幕・酒などを積み込んで、舟で豊平川を下ります。翌日、アイヌの漕ぐ舟で石狩川を北上、美唄で松浦武四郎の案内人もつとめたアイヌの長老セッカウシが同行道案内を申し出ています。石狩川は鮭が群をなして遡上していたといいます。各地で多くの人たちに会い、和人とアイヌの給料の差別の実態を知り心を痛めています。
6月17日上川近文泊り、19日陸行開始。笹薮を掻き分け、薮蚊の襲撃に悩ませられながら、苦労の末山越えして、ライマンと同じコースをたどり、石狩川の水源シノマン岳に達します。そこから音更川に沿って下り、やっと十勝川に達し、芽室、帯広に入ります。十勝は鹿の天国で、至るところに鹿の小道があり、時に風のように木の葉をそよがせて走り去る鹿の大群も見られたといいます。
ここで道案内のアイヌ人、セッカウシ、ウトウンベ、アヤンたちと別れて、暦舟川沿いに太平洋岸の大津へ向かいます。ここからは多くの和人に迎えられて「大判官」の接待をうけたようです。広尾から様似、浦河、三石、静内を経て、千歳から川舟を雇って石狩へ下ります。7月12日早朝、石狩河口から馬で篠路村に立ち寄り、年来の農友、篠路の開祖早山清太郎(1817-1907)に会っています。松本としては別れの挨拶のつもりであったようです。午前10時帰札、出迎えの堀中判官、調所少判官に帰着を告げ、登庁はせず官邸に戻ります。帰札後も黒田からは何の返答もなく、アイヌの強制移住はすでに6月23日に実行されていました。松本は自分の無力を嘆き憤慨し、辞任を決意して辞表を提出。黒田の慰留も聞き入れず、7月13日早朝、馬夫とともに官邸を出発して、島松沢の心を許した農友、寒地稲作の祖とされる中山久蔵(1828-1919)宅に立ち寄ります。中山は突然の別れに驚き、馬上で語り合いながら苫小牧まで同行してくれたのでした。こうして、心許した早山や中山らに分かれを告げて、室蘭、噴火湾を回って森から函館に向かいます。この時、黒田が「玄武丸」で函館に来ていること知り、会わないように手筈を整えて、16日、「庚午丸」に乗り込み出発します。こうして津軽海峡を越えて船川港に上陸し、秋田を経て、17日、松本は故郷鶴岡への道を急いだのでした、(この時38歳)。
彼の清廉無私の為政は高い評価を受けた反面、薩摩閥で固められていた開拓使において、財政建て直しの仕事を終えた段階においては、もはや松本の存在は許されない状況にあったという歴史的見方もあるようです。(1876年9月<松本大判官の後任は、薩摩藩士堀基>
)
■晩年― 一介の農夫として
職を投げ打って庄内(現鶴岡市)へ帰った松本は、再び官途につくことはありませんでした。自ら農夫と称し、先祖伝来の武家屋敷の菜園を一人耕しながら悠々自適の毎日を過ごし、酒に親しみ、時には郊外に出て友と語ることもあったようです。1876年(明治9年)11月、私財を投じて戊辰戦争戦死者の招魂碑を、鶴ヶ岡大督寺(現常念寺)境内に建立して、盛大な供養を行っています。また、漢文に長じた松本は顕彰碑など建碑の撰文を依頼されて書いており、60基を越えるといわれます。松本は、政治向きのことは口にせず、もっぱら漢学同好の士と語るのを楽しみにしています。松本は、雨の日は多く中国の古典に読み耽る読書家でした。
松本は、家族の者にも無口な老人になっていったといわれますが、大変な筆力で、北海道のことを記した「根室も志保草」や自分の生涯の回顧録「空語集」140巻、「農業聞書」5巻など多数の著書・文献を書き残しています。官にあった時も、辞して農民であった時も、たまに酒をたしなむ以外は、質素な生活に甘んじています。開拓使大判官時代でさえも、家に書生一人を置いただけであったといわれます。蓑笠翁・松農夫・一樽居士・蝦夷骨董・腕力農夫などを号としています。76歳の時の書に「死生は天にあり、誹誉は人に任せ、ただ農を楽しむのみ」と書いています。また、松本の家族は、二男三女があり、長男小太郎は30歳で病死。次男小次郎(陸軍士官学校卒)、1900年(明治33年)11月、札幌月寒の第25連隊旗手として奉職しています。
松本の鶴岡での40余年にわたる長い晴耕雨読の生活も終りを迎えます。松本が生涯を閉じたのは、1916年(大正5年)でした。同じ年の4月26日妻逝去(73歳)、そして11月27日十郎逝去。尿毒症による病死、77歳でした。現在、鶴ヶ岡安国寺に眠っています
■あとがき
1908年(明治41年)庄内農学校長若林功(札幌農学校出身)が、書籍に囲まれた書斎に松本を訪ね、て、学生のために講演を依頼するも、一笑に付されています。その2年後に北海道史の研究者河野常吉が訪ねて、秘話・秘録を得て「松本十郎翁談話」を出版しています。
松本十郎を記念するものとしては、1996年(平成8年)4月、「松本十郎を顕彰する会」が発足して、2001年(平成13年)5月に「松本十郎翁頌徳碑」(鶴岡市立図書館前庭)を建立しています。松本が活躍した根室には、今もその名をとった「松本町」があります。
中山久蔵翁との交友を示すものとして、旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)には、1907年(明治40年)1月、松本が中山久蔵翁80歳を祝して書き送った長文の手紙が陳列されており、1915年(大正4年)に贈った書「大黒の槌にもまさる鍬の先」の掛け軸があります。また、松本の生前(大正2年?)、当時札幌農学校の学生であった松本友(十郎の孫)が、松本の手紙を携えて中山久蔵宅を訪問して歓迎されています。
< 松本十郎の活躍と業績について、多岐にわたる部分は、紙数の関係で割愛しました。>
<主な参考文献及び参考資料>
□ 「北海道の歴史」 榎本守恵著 北海道新聞社 □ 「星霜」2 北海道史 明治2(1875~1885) 北海道新聞社編 □「北海道の歴史」田端宏・桑原真人・船津功・関口明共著 山川出版社 □ 「異形の人―厚司判官松本十郎伝」井黒弥太郎著 北海道新聞社 □「さらば・・蝦夷地―松本十郎伝」北国諒星著 北海道出版企画センター □「北海道開拓功労者関係資料集録」(北海道) □ 「開拓使時代」 さっぽろ文庫 札幌市教育委員会編 □「開拓の群像」中 北海道 □ 「根室・千島歴史人名事典」 根室・千島歴史人名事典編集委員会 編 □ インターネット資料など
札幌市の水道とウィリアム・ホィーラーの業績
-あの札幌農学校のホィーラー考案の浄水装置が、現在も標準方式として採用されていますー
2009年(平成21年)9月5日、「北海道を知る歴史発見の旅シリーズ・伏見地区歴史散策と藻岩山登山コース」を実施しました。伏見地区の観音寺・伏見稲荷神社に次いで、札幌市水道記念館・札幌市水道局藻岩浄水場を見学しましたが、その時に「ホイラー式重力開放型濾過池」「ホイラー式下部集水装置」なるものが、現在も標準方式として使用されていることを知り、驚きました。早速、ウィリアム・ホィーラーの出身地である米国マサチューセッツ州コンコードのDr.トーマス・カーチンにこのことを知らせました。そして、2010年(平成22年)7月6日、カーチン先生一行と藻岩浄水場を再び訪れて、「ホイラー式」に再会し、感動をあらたにしたのでした。しかし・・・・・
しかし、札幌に水道が創設されたのは、1937年(昭和12年)。そして、ウィリアム・ホィーラー(1851-1932)が、クラーク博士・ペンハローとともに来札したのは、1876年(明治9年)です。この年札幌農学校開校(8月14日)。初代教頭クラーク博士に続いて、ホィーラーは第2代教頭となり約3年半滞在して、1879年(明治12年)12月に帰国していますので、時代的には、札幌の水道設置とホィーラー在札期間の接点はまったく考えられません。
ホィーラーは、札幌農学校のすぐれた運営、教育指導はもちろんのこと、気象観測所設置や鉄道敷設の実地調査、コロニアル洋式の「演武場」(今日の時計台)の設計、また牛馬や牧草・農機具を収容できる三層づくりの巨大な「モデルバーン」(模範畜舎)の設計・施工など多くの業績を残しています。しかし、この時期は、札幌は豊富な地下水に恵まれていたので、「水道」のことはまだ問題として浮上していませんでした。
そこで、このナゾを調べてみることにしました・・・ホィーラーは、1879年(明治12年)12月帰国後は、土木工学の権威としてボストンに建設事務所を開設、アメリカ東部諸州の、非常に多くの上水道・下水道工事を手がけていたのです。・・・実は、ここにアメリカ方式(「ホィラー式」)の原点があると考えられます。以下に、歴史的な経緯をたどって見ましょう。
北海道の近代的な「水道」は、1889年(明治22年)の函館に次いで、1892年(明治25年)の月形の政治犯や凶悪犯を収容していた「樺戸集治監(明治14年設置)」がふくれあがる収容者の飲み水確保のために完成させた上水道が最初とされます。
札幌では、1909年(明治42年)になって、地下水の得がたい月寒高台にあった歩兵第25連隊(第7師団)の月寒軍用水道が完成しています。その後、昭和初期に、札幌の琴似十二軒地区と円山地区で、地下水を汲み上げて住宅地に給水するという水道が建設されています。
1931年(昭和6年)当時、道内各都市では、全国最初の横浜(1889・明20)に次ぐ2番目の函館(1889・明22)のほか、根室、岩見沢、小樽、室蘭、稚内、釧路にはすでに水道があり、大都市としては、札幌市と旭川市だけがない状況でした。札幌では、特に水道の緊急な必要がないほど容易に豊富な地下水が得られたこともあり、井戸の利用、特にポンプ井戸が急速に普及していました。
札幌市の水道事業の歴史は幾多の紆余曲折を経ていきます。1910年(明治43年)から、調査費などの予算計上・議会提案などが繰り返されますが、豊かな地下水に恵まれた札幌では、定山渓温泉の下水や屎尿の混入した水は危険であるなどの反対意見もあり、また水力発電事業関係との豊平川の水利権問題があり、このような事情が、札幌の水道事業を大きく遅らせたのでした。
札幌の上水道は、やっと1934年(昭和9年)6月24日起工式を行い着工、1937年(昭和12年)4月1日に初めて通水を開始し、同年6月30日内外の諸工事終了、7月28日「藻岩浄水場」で盛大な落成式を行っています。(これにより、7月28日が「水道記念日」とされます。)
藻岩浄水場は、当時としては、最も新しい水道技術が採用され、機械化・自動化を駆使した最新鋭の設備であったといわれます。浄水方式としてアメリカの「急速砂濾過法」(ホイラー式)を採用したことが、当時としては画期的なことといわれました。藻岩第2浄水場第1期拡張工事(1958年・昭和33年)、第2期拡張工事(1967年・昭和42年)で、あわせて大型12基の沈澱池・濾過池を設置した時にも、この「ホイラー式」が標準装置として採用されています。今日では、札幌市の浄水場は、豊平川を水源とする藻岩浄水場・白川浄水場・定山渓浄水場、琴似発寒川を水源とする西野浄水場、星置川を水源とする宮町浄水場の5ヶ所があります。
わが国最初の、1889年(明治20年)竣工の横浜水道が、イギリス式の「緩速砂濾過法」を採用して以来、この浄水方式を採用するのが普通でした。しかし一方、アメリカで広く採用されている「急速砂濾過法」(ホイラー式)があり、これは装置が複雑で、多くの機械類・薬品を必要とする上管理も難しいが、水質的な適応範囲が広く、格段に大量の浄水を得ることが出来、水の大量消費に適しているといわれていました。
札幌市は、計画の段階から、技術上の問題、浄水場敷地などの諸問題を検討の末、この「急速砂濾過法」採用に踏み切ったのです。これが、アメリカの「ホイラー式」だったのでした。こうして意外な形で、「ウィリアム・ホィーラー」が、再び札幌にやって来たといってよいようです。
現在では、全国的にこの「ホイラー式」の浄水装置の採用が多く、東京、京都、神戸、大阪、仙台などでも採用されているようです。
参考資料 ①
急速濾過法[Rapid Filtration ]
急速濾過法は、浄水処理の中核をなす重要な処理法ですが,そのメリットは意外によく知られていないような気がします。大規模な浄水場においてもっとも普及している浄水方法。
薬注設備 フロック形成池 汚泥処理施設
着水井 凝集沈澱池 急速濾過池 排水池 排泥池
□施設構成 急速濾過システムは,原水濁度への守備範囲が広いこと,面積あたりの処理能力が高いこと,自動化が緩速濾過よりも容易なこと,などの特徴から,大規模な浄水場を中心に広く普及しています。 ただ,溶解性物質などへの対応力は緩速濾過よりも低く,その後の原水の悪化によって高度処理と呼ばれるさまざまな追加処理を導入するケースが広がっています。
□理 論 除去原理は,ストレーニング(篩い),沈殿作用,吸着作用,フロックの成長などといわれています。急速濾過法では,原水に凝集剤と,必要に応じて助剤を投入し,これをなるべく急速に攪拌(混ぜ合わせる)して均等に行き渡らせます。凝集剤は,水の中の懸濁質(微細な固体状の不純物)を絡め取るようにして集め,フロックと呼ばれるふわふわの塊を形成させます。フロックは成長すると沈みやすくなりますので,これを沈殿池に導いて流速を落として沈めます。そして,最後の仕上げに砂濾過池で濾過して残ったフロックを取り除く方法です。濾過池で蓄積した懸濁質は,砂層を閉塞させて水の流れを阻害し,水のもつ位置エネルギーである水頭を消費しますので,あるていどの頻度で逆洗浄という逆向けの流れを起こして濾過層にたまった懸濁質を除き,汚泥として分離します。
参考資料 ② 緩速濾過法と急速濾過法
緩速濾過法[Slow Filtration] 1829年に英国のJames Simpsonが開発した砂濾過法で、その後ヨーロッパで普及し、やがて世界的に採用されるようになりました。日本では、戦前までヨーロッパの技術の影響を受け、上水道のほとんどが緩速濾過法を採用しました。
この方法の特徴は、原水(処理される元の水)が細かい径の砂層(濾層)を一日3~6メートルとごく遅い速度で濾過されることです。このようにして濾過すると、砂層の表面に微生物の粘質膜ができ、この微生物膜の働きで濁りや細菌、藻類、油やアンモニア生窒素、有機物や異臭味、鉄やマンガンまでもが効果的に除去され、美味しくて安全性の高い水をつくることが出来ます。除去される細菌にはもちろん病原菌も含まれます。また、ある程度の水質変化に対して緩衝性があります。微生物の膜は表面から20~30㎝下層の砂にまで及びます。このように緩速濾過法では美味しくて安全な水を作ることが出来ますが、戦後、この緩速濾過法中心の水道が急速濾過法中心の処理法に大きく変換しました。これは次項に述べる急速濾過法を主とするアメリカの技術に影響されたこと、1950年代半ばから我が国の産業、経済が急速に発展成長したこと、これに応じて水道水の需要が急増したこと、また、水道普及率がめざましく伸びたことなどによります。急増する水道水の需要を賄うために、多くの浄水場が新設或いは拡張されましたが、特に規模の大きい浄水場では浄水システムに急速濾過法が採用されました。これは、規模の大きい浄水場の新設、拡張には用地難を伴うことが多く、また維持管理作業の面でも困難を伴うことから、狭い敷地で大量の水を処理できる急速濾過法が採用されることになったわけです。
また処理する原水がある程度以上良質の水でなければならない緩速濾過の場合、水道水源環境の汚染による原水水質の劣化も緩速濾過池の使用比率の減少につながりました。
緩速濾過池は、急速濾過池に比べてその濾過速度からも明らかなように20~30倍の面積が必要となりますが、薬品処理などの付属設備は不必要になります。
この両者の得失は浄水場の規模によって変わり、一般に規模が大きくなるほど急速濾過法が有利になり、規模が小さくなるにしたがって緩速濾過法が有利になることが多いようです。大規模な浄水場では、緩速濾過法は付属設備が不必要なことを考慮に入れても、急速濾過法の数倍以上の敷地面積を要するとされています。
最近の上水道事業における急速濾過池使用率の全国平均は約92%位ですが、給水人口2万人以下の小規模上水道になると緩速濾過池の使用率が増加して10%を越えるようになり、1万人以下の給水人口では20%を超えるようになりました。また、緩速濾過の計画浄水量は、それまで僅かずつ減少していたものが、平成5年度からは横ばいとなっています。(水道統計の経年分析より、水道協会雑誌第791号)美味しくて安全な水を作ることの出来る緩速濾過法は、敷地の問題や水源水質の条件に問題がなければ、あるいは克服できる可能性がある場合には、今後、積極的に見直されるべきでしょう。
急速濾過法[Rapid Filtration] 緩速濾過に対する砂濾過の方法で、1872年にアメリカで出現したとされています。日本では、第二次大戦後にアメリカの影響を受けて、上水道工業用水道ともにこの濾過法が急速に普及しました。 急速濾過は、緩速濾過の濾過速度に比較し濾過速度が非常に速いことが特徴で、上水道で採用されている濾過速度は、約5m/h(メートル/時間)です。しかし、最近では工業用水を 中心に濾過速度を早くする試みが多くなりました。10~15m/hなどは普通の速度となりつつあり、それ以上の速度の濾過法も出現しています。
この濾過法の特長は、濾過速度が速いため設備面積が少なくてすみ、大量の濾過水をつくることが出来ることです。 しかし、砂層に生物膜が出来ず、物理的な濾過が主体で水質の変動に対する緩衝性が少ないため、薬品処理で安全性を確保せねばなりません。このため上水道における急速濾過では
塩素処理による消毒が必須条件になります。 また、水の美味しさの点でも緩速濾過法におよびません。急速濾過法は砂などの濾材(最も一般的な濾材は砂ですが、そのほか無煙炭粒=アンスラサイト粒やガーネット粒などが用いられることもあります)による物理的な濾過が基本であり、除去作用は緩速濾過のように砂層の生物膜によるものではありません。したがって、急速濾過法では清澄な水を得るために細かい径の濾材を用いると濾過抵抗が増加しますし、また、採水量を大にするために粗い径の濾材を使用すれば、濁質や微生物の漏洩が多くなり
ます。このようなことから、結果的に適度な粒径の濾材を使用することになります。このため、急速濾過法ではある程度の細かい濁質や細菌など微生物の漏洩は避けられませんし、また、増水時の急な濁質の増加に対してはすぐに閉塞してしまうなど、原水水質の変化に対する緩衝性もあまりありません。
以上のようなことから、急速濾過方式ではこのような濁質などを効果的に除去するために前段に薬品沈澱池を置いているのが普通です。
薬品沈澱池では、原水に凝集剤を加えて濁質や微生物をフロック化し たものを沈降分離して除去します。さらに上澄水中に残留したフロックは急速濾過装置(池)で濾過されます。しかし、細菌などは漏洩しますから、急速濾過法では塩素処理による消毒が必須条件になってくるわけです。これらのプロセスが組み合わされて急速濾過システムが構成され ることになります。
(注).フロック : 水中に懸濁するコロイドなどの微粒子が結合して集合体となり、さらに大きくなって沈降しやすくなったり、濾過しやすくなった凝集体。
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